人間の生き方

笑って死ねるか?!力を尽くして日々最善を尽くす

日々生きているなかで、仕事でもなんでも、一生懸命精魂尽して努力した時には、力が及ばず・・という面が多々あったとしても充実感でいっぱいになるものである。この気持ちは何ものに変えがたいものであると思う。僕自身、これまでの人生、決して成功した人生とはいえなかったけれども僕なりにベストを尽くしてきた。これだけは自信を持って言える。去年、再出血で死ぬかもしれないと覚悟をしたとき、自分の人生を振り返り、能力がなかったかもしれないが、自分なりに常に、精いっぱい頑張ってきた人生だったと思うことができた。「自分の度量を省みずちょっと無茶したかな」とは思ったが・・それくらいの方が納得いく人生になると思うこれは事の成否を超えて、人生の最期を迎えるにあたって最も大切なことではないかと感じた。人生の勝ち方・負け方どんなに強い力士でもその勝ち方が正々堂々としていないとファンは失望するし、人気も去ってしまう。勝負であるからには勝たなければならないが、どんなやり方でも勝ちさえすれば良いのかといえばそうではない。人生も同じだと思う。成功する人生もあるだろう。僕みたいに途中で失敗する人生もあるだろう。しかしその成功の仕方...
人間について

シャボン玉の歌は鎮魂歌だった。シャボン玉の歌の隠れた秘話

シャボン玉の歌は鎮魂歌だった。ご存知の方も多いと思いますが、僕はつい最近シャボン玉の歌はが実は鎮魂歌だったことを知りました。この歌を作詞・作曲された野口雨情さんは、ご自身のお子様を亡くしてらっしゃいます。しかも、生まれてから1週間後に亡くなったそうです。この曲が発表されたのは、その直後です。1922年(大正11年)です。当時は、医療も まだまだ不十分で、生後まもない赤ちゃんがやむを得ず 亡くなられてしまうことも多かったらしいです。この歌は亡くされたお子様への鎮魂歌なのですね。シャボン玉=生まれてすぐに無なっくなったわが子だったのです。そう思って聴いてみると心にしみる名曲です。人の命のはかなさを感じます僕も生まれて3ヶ月のとき肺炎で死にかかっていたとき、僕の命はこのシャボン玉のようだったかのしれないな。3monthes of my son
起業・ビジネス

貨幣経済が破たんする?

貨幣経済が破たんする?どうも最近の世界経済は変だと感じる。非常に危ないのではないか。貨幣経済そのものがおかしくなってきているのではないだろうか。最近の世界的な自国通貨安誘導・・おかしな現象だ・・通常は自国の通貨が高いということは自国の通貨が強いということを意味し、他国の物を安く買えるという意味で良いことのはずである。それが最近おかしくなっている。自国のものを安く出て売りたいがために相手諸国の通貨を安くしようとしている。僕はもともと理系で経済学部でもなく経済の専門家ではないが、昔から変動相場制はおかしいと直感的に思っていた。そもそも通貨とは、もの価値を評価する尺度であるはずだ。つまり理系的に考えると、物の長さや重さを測定する定規や秤のようなものだと思う。だから定規や秤は普遍でなければならない。当たり前のことだが定規や秤の尺度がコロコロ変わっては大混乱に陥る。たとえば、一般的にに定規の一目盛りは1mmは1mmです。変動相場制とはこの定規の一目盛りが変わるということと同じだと思う。そして自国通貨を安く誘導するこということは。自分の持っているものを都合によって、大きく見せたり、小さく見せたりす...
独り言

再び歩み始めたようだ

脳出血で倒れてから間もなく2年になる。僕はまだ生きている。僕の脳出血はモヤモヤ病を起因とする出血である。モヤモヤ病を起因とする出血の場合、再出血の確率が高いもし再出血した場合、「重篤」になる場合が多いという。重篤=死と僕は理解していた。僕は死の恐怖と闘っていた。そして「死の覚悟」をしたこともあった。1年以内に再出血しても仕方がないという「覚悟」ができていた。不思議な感覚だった死の覚悟」ができたときは不思議な充実感だった。僕の人生に後悔はないと言い切れた。最後までベストを尽くした人生だったと思えた。道半ばで、「無念ではあるが後悔はない。」このように思えることはある意味で心の幸せだった。奇妙な充実感でいっぱいになっていた。本日2010年10月29日僕は生きている。当時今日まで生きているとは本当に思っていなかった。とっくに再出血し、死を迎えている頃だと考えていた。だから生きているうちににできることをがむしゃらにやろうと考えた。このまま生き方に後悔のないまま死を迎えたかった。ところがそうは問屋がおろさなかった。今日まで生きてしまった。そして、更にがむしゃらにやってきたこと・・それが花を咲かせ始...
人間について

真剣勝負で生きているか

僕は昔、剣道をやっていた。面に小手、胴なっどの防具をつけて竹刀で試合をやっている間は真剣にやっているつもりでも、心に隙がある打たれても、死にはしないし、血も出ない、ケガもしないからだ。これが真剣ならそうはいかない。一瞬の気の緩みで命を落とす。勝つこともあれば、負けることもあるなどと呑気なことは言ってはいられない。勝つか負けるかどちらか一つ。負ければ命が飛ぶ。これが「真剣勝負」というものだ。人生は真剣勝負だと思う。どんな小さなことにも命をかけて真剣にやらなければならないと思う。長い人生失敗することもあるなどと呑気に構えて構えてはいられない。これは失敗したときの慰めの言葉であって、初めからこんな気構えでいいわけがない。日ごろ私たちは「真剣にやってます」と軽々しく言っているが、「真剣」ということははそんなものではない。そして真剣になるかならないか、その度合いによってその人の人生は決まってくると思う。僕も一度は脳出血という挫折を味わったが今からでも遅くはないこれからの残された人生「真剣勝負」で日々臨みたいと思う。それでも心がメゲてしまいそうになったときには心の中で「絶対に負けてたまるか」と叫ぶ...
人間の生き方

勘を働かす

サムライ・・真剣を持って敵と相向かう・・緊張した瞬間・・白刃がキラめき、打ち込む斬り込まれる瞬間、相手の剣をはね、飛び退り、逆に斬り込む目にも止まらぬ早技であるそこに理屈はない相手の刃が右から来た、だからこれを右にはね、身体を切り返し、一歩下がって左から斬り返そうなどといちいち考えながら打ち合ってなどいない。目には見えぬ気配のようなものを感じ取りからだ全体にひらめく一瞬の勘で咄嗟に斬り返す動作である。しかしそれは、理屈で考えた以上に正確に且つ的確に動作し、相手を倒す。勘というと非科学的なものと考えがちだがそうではないと思う。これは日頃の修練から積み重ねた経験から生まれるものである思う。人間は修練に修練を重ねると科学の力も及ばぬのほどの正確さをもつことができるのであると思う。それは人間の脳のなせる技であるのではないか。人間の脳が蓄積できる情報量は無限に近い。修練を重ねれば重ねるほど、情報の蓄積量は無限に蓄積されていく。それらの無限大の情報から、瞬時に正確な直感を働かせることができるのである。脳細胞の組織は米粒程度の大きさの中に10万個のニューロンとx200万本の軸索と100億個のシナプス...
人間の生き方

日本は、人類はパラダイム大変換をすべきときではないか

今、日本は、いや人類はパラダイム大変換をすべきときではないか僕はこの2年間で自分の誇り、喜びの価値観の大転換をしました。否応なく転換させられたというのが真実ですが・・これをパラダイムの変換というのだろう。パラダイム転換というのは大変な苦痛を伴います。少なくとも僕にとっては大きな苦痛でした。障害者となってしまった今、価値観の大転換をしないと生きていけない。そのためには自分の持っていた誇りや喜びは一旦一切捨てなければならない。倒れる前の僕は、体力には自信がありました。水泳部出身なので、持久力には自信があり一種の自分の誇りでありプライドでもありました。また仕事においてもエンジニアの経験コンサルタントの経験などいろいろな職歴からバリバリと仕事をこなしている自分に自画自賛と少しの誇りがありました。車にしても、排気量の大きなアメ車の大きな車に乗り、自慢でもありました。(今から考えるとくだらないことだと思えるのですが)そして「喜び」フィットネスクラブのプールで思い切り泳いだり、運動をして汗をかいたりする喜び、お気に入りの車でドライブする喜び脳出血によって左半身麻痺となり、そんなささやかな誇りや喜びを...
人間について

自問自答

自分のしていることに対して、他の人が評価をする 褒められる場合もある、けなされる場合もある過大評価にびっくりすることもあるだろう。冷ややかに無視されてしまう場合もあるだろうだからうれしくなって心躍る時もあれば心暗くなってしまうこともあるだろう賛否両論とも自分にとっての戒めとして、きちん受け止めるようにならなければならないといつも自分に言い聞かせるようにしているが、物事が順調に運ぶとついつい自分がやっていることは正しいことだとある意味で盛り上がった気持になりがちだ。常に今自分がやろうとしていること、やっていることは本当に世の中の役に立っているのか世の中の役に立つことなのか自分の単なる自己満足で、エゴイズムではないか、そのことによって周りに迷惑をかけていはいないか。そんなことを常に自問自答しながら生きていくことが大切なのだろうもちろん必要以上に、疑心暗鬼になる必要はないと思う。でも自分を信じながら、しかも自問自答を繰り返していくことが大切なんだろう。今の僕は少しずつ順調に進み始めているような気がするこんな時こそ自問自答をしてみよう。
人間の生き方

生きる意味

「あなたは何のために生きていますか」という問い掛けに対し明確に答えることの出来る人は少ないのではないでしょうか。趣味に生きるとか、スポーツが大好きで、スポーツさえしていればそれで良い。仕事が趣味、仕事に生きがいを感じ、死ぬ瞬間まで仕事をしていたい。お金儲けが趣味そんな人もいるでしょう。僕も健常者の頃、いろんな「楽しみ」がありました。プールで思いっきり泳ぐ楽しみサッカーや野球をして汗をかく楽しみジョギングをして汗をかく楽しみ。沖縄に行ってスキューバダイビングをして水中写真を撮影する楽しみ次に休みを取ったら何をしようかな。時間とお金に余裕ができ、沖縄なんかに行けそうになればワクワクしたものだ。でも、もうこれらの「楽しみ」はすべてあきらめなければならない状況になってしまった。このブログにもある心臓に障害のある方からメッセージをいただきました「障害を持つということは生きる上でたくさんのことを諦めなければならないですよね」というメッセージだった。僕もこの2年間で本当にたくさんのこと諦めた、いや諦めさせられた。「もう2度とできないのか」と思った瞬間はとても辛かった。「ではいろんな楽しみを諦めたあな...
人間について

過剰なノルマ

全体の記事のコメントに過剰なノルマ残業によりノイローゼになり自殺する人がいるというコメントがありましたので、そのことについて書いてみたいと思います。私が書いたプロ意識というのはあくまでも、「貢献」に対する「正当な対価」を報酬としてもらっているのであれば、サービス残業などと文句を言わずに、徹夜してでも業務を完遂することが当たり前だ。ということを言いたかったのです。「ノルマ」この言葉はあまり良いイメージの言葉ではありません。 そこでちょっと調べてみウィキペディアに下記のように書かれていました。ノルマ(ロシア語:Норма, norma)とは半強制的に与えられた労働の基準量であり、大抵の場合時間的強制も付加される。また会社の売上を一定以上確保する、特定の日までに一定量を製造・生産する、競合他社との競争に勝つ、などといった目的を達成するために、経営者などが労働者にノルマを課す。労働者にノルマを達成させる意欲を高めさせるために、労働者に対しノルマ達成の褒美(報奨金、昇進、昇給、海外旅行など高額商品の授与)を用意したり、未達成の場合はペナルティ(解雇、減給、左遷、暴力・暴言など)を与える場合もある...