人間について

素晴らしい!この感性!

何年か前にアカデミー賞を受賞した短編アニメ・・「つみきのいえ」を久し振りにYouTubeで観た素晴らしい!の一言!たった10分そこそこそこの短編アニメだけどこの10分の中に2時間モノに匹敵する多くの物語を訴えかけている最近の戦闘シーンと特撮だけを売り物にした低レベルのハリウッド映画なんか観るよりずっと感動した・・人生のはかなさを感じ、ちょっと涙ぐみそうだった日本人の感性も捨てたものではいな・・
人間について

「心情的理解」が人を動かす

昔、若いころ人を動かすためには相手に対する「心情的理解」が必要だと習ったそして相手に対して「心情的理解」が示せたかどうかの判断は・・「相手の気持ちを相手が表現する以上にこちらが表現できたとき」ということだった。そんなことを習ってしばらくしたとき僕自身がある相手に「「心情的理解」」を示すことができたとう瞬間に出くわした。僕は若い一時期、柄にも合わず、コンサルタントという職業についていたあるとき、ある企業の担当をしていたときその企業の№2の社員(仮にAさんとしよう)が会社(社長)に対して不満を持っていることがわかった僕はそのとき(今はもう何だったか忘れたけど・・)Aさんの不満が手に取るように理解できた。そしてある会議の場で僕がAさんの不満を30分ほど代弁してあげたことがあった。そのときだった。Aさんは目を輝かせて、「そうなんです!私の言いたかったとは、今、岡下さん言った通りなんです!」「岡下さんだけが私の気持ちを分かってっくれています」と言ってくれた・・僕は、正直驚いた・・たぶん僕がAさんの気持ちを的確に代弁できたのだろうAさんが言いたくても言えなかった不満を僕が「彼以上の表現で」言うこと...
人間の生き方

日々苦悶、堪忍

障害者になるという事、、そして、障害者として生きるという事、これは想像を絶する苦悶と堪忍の日々である障害、、単に障害というけれど、何の障害になるのか?分かるだろうか?それは、生きる障害なのだ身体に障害を持つという事は「生きるために最低限必要な事ができなくなる」という事なのだ分かるだろうかよく、できなくなった事に目を向けるななどと言う人(医師やカウンセラーも含め)がいるけれど、、その理由はできなくなった事にいつまでも囚われていると辛くなるだけだから、と言われるこれは健常者だから言える事だ詭弁としか思えない。生きるために最低限必要な動作ができなくなるという事、、それは、僕の場合、左半身が動かない事により、手で持つ、掴む、放す、入れる等々、そして、歩く、しゃがむ、そんな当たり前の事ができなくなるのだ、そういう動作をしなくて済むなら目を向けずに済むだろう簡単な話、僕はお椀を持って味噌汁を飲む事ができない。御茶碗を持ってご飯を食べる事ができない。なぜなら、左手で器を「持つ」事ができないから、、下に落ちた物を取るのに酷く苦労するなぜなら、しゃがむ事ができないから。。これらは日常生活で最低限必要な動...
人間について

僕が未来を作るためにしていること・・

僕は物事が行き詰ってこの先何をして良いかわからなくなったとき、将来が全く見えなくなったと感じたとき僕がすることはとにかく新しい人に繋がりを持つことを心掛けています。とにかく、何かやりたい事(今身体で、できなくても良いから)とにかくやっててみたい事に関係のある人有名人でも、政治家でも関連事業をしている企業の社長とかに・地位や立場なんてお構いなしにコンタクトを取る。コンタクトの取り方は2つ・自分の考えを述べる・提案するこのどちらかだ手段はメールか親展による手紙・・関連する知識がなければ即席でネットで情報を集めて勉強する・・専門家の人にとってみれば知識が浅いことは丸わかりでもいいとにかく当ってみる当たって砕けて当たり前!でも当たることによって少なくとも僕の存在を知らせることができるそのためにできるだけインパクトのある言葉を使うとにかく僕を覚えてもらうそれだけで良いのだそうすることによって、何かが変わってくる僕の存在を覚えてもらうとうだけの方法で繋がってさえいればあるとき突然連絡が来たりする不思議なもんだそして新しい情報や考え方を知ることができるそうすると、そこから新たなアイデアが自分の中に湧...
独り言

障害に慣れる?

今日、何気なく僕の友人が「早く障害に慣れなきゃね!」と僕に言った。友人は、励ましのつもりで言ってくれたのであろうでも咄嗟に僕は思った・・やっぱりそう思ってるんだ・・と「そう」とは、障害は、月日が経てば「慣れる」事ができるものだ・・と以前も記事に書いたけど、僕が健常者の頃、思っていた事と同んなじだ。。でも障害に「慣れる」なんて事は絶対にありえない。何年経とうが何十年経とうが・・絶対に慣れるなんてことはない僕の知り合いの右麻痺20年の人も未だに苦しんでいる。20年経っても障害になんて「慣れる」ことはないのだなぜなら・・麻痺した左半身の(動いていた)イメージが(いつまでも)残っているからだこれは「こだわり」というものとも全然違う。僕の脳には健常な頃の「身体イメージが」厳然と残ってるのだ・・これは取り払うことはたぶん無理だろうそのイメージ通り、動けない限り、慣れたり、受け入れたりできるものではない。これは健常者の方に言っても理解不能だろうと思うけれど・・こんなのが例えになるのかどうかわからないけれど、」たとえば幼い頃から皆、注射は何回もしているだろうでもいつまでたっても注射の痛みに「慣れる」こ...
人間について

今日、選挙に行かなかった(もしくは今からでも行く気がない人)へ・・

今日、11時頃選挙の投票に行ってきた。僕にとってはかなりの重労働だった投票場は近くの小学校・・距離は自宅から700mほど700mといっても今の僕には杖を突いて必死で歩いても15分近くかかる投票場に着いた頃には麻痺側の左足は痺れ切って、左足全体が電気の塊のようになってほとんど感覚がなくなる選挙に行く気がない人にとってはなぜ、それほどまでして選挙に行くのか不思議だろうと思うそこで先日も記事に書いた事をもう一度そのまま記述したいと思うなぜ選挙に行くことが重要か、逆に行かないことがいけないのかという事です--------------ここから---------最近日本では選挙に行かない人が増えているという理由は「誰がやっても同じだから・・」「政治家は誰も信用できないから・・」という理由が大半ではないだろうかだったら選挙に行かなくても良いのだろうか或いは白票(棄権)を投じても良いのだろうか選挙とは。。国会が国権の最高機関でありその国会に対して主権者である国民が権利を行使する最大の機会が選挙のはずである。つまり「主権を放棄している人」が増えていることになるのではないのか。ただ単に自分の主権者たる地位...
人間について

希望を持つことで希望は現実になる・・前向きな心や希望に根拠など必要ない

何回も記事に書いてきたことだけど僕は前向きな心に根拠など必要ないと思っているなぜか・・今の世の中は将来に希望が持てない世の中だとか将来に不安があるとか政治家もメディアもよく言うこれど・そもそも未来なんて「予測不可能」であり、「不確実」であるなのに不安になる不安になる事にも根拠なんて無いじゃないかあの芥川龍之介の自殺の原因と言われる「漠然とした不安」・・・こういうのが一番いけないと思う「漠然とした不安」にはハッキリした原因がないだから不安を取り除くための解決策も見えないだから将来を「ひとり勝手に」嘆き、憂いて、自殺する・・不安に根拠がないのならば、希望にも根拠なんて必要ない皆、本当は「根拠のない希望」持っているのだだから今この瞬間を嘆くことなく、憂うことなく、生きていられるのだと思う例えば明日自分が交通事故に合って死ぬなんてほとんどの人は思っていないだろうこれこそが「根拠のない希望」だと思う。「明日自分は交通事故に遭って死なない」という「根拠のない希望」を持っていることになりはしないか希望ってそんなものだと思う。希望に根拠を求めることよりもたとえ根拠がなくても希望を持つ事が大事だと思って...
最新環境技術

さあ選挙に行くか・・

今日は総選挙さあ、そろそろ選挙に行くとすするかどこに投票するか?僕はもうとっくに決まっている最近の各党の政策(公約)はどこも似たり寄ったり脱原発、経済再生、外交力の強化・・・・え特に脱原発、経済再生はほぼ全政党がアピールしているこうなるとどこが実現できるかである僕自身再生可能エネルギー関係の普及活動をやっていた関係上どこが脱原発再生可能エネルギー普及ができそうかずっと注視してきた僕には(経済界が恐れている電力供給不足を起こすことなしに)脱原発・再生可能エネルギー普及実現の具体的プランが頭の中にある国が本気で集中投資すれば、絶対にできると判断しているそれどころか再生可能エネルギー普及にが本気で集中投資すれば確実に景気浮揚すると考えているなぜなら再生可能エネルギー関係の事業や新しい企業がたくさんできる(作る必要がある)からだその結果、雇用も創出される景気浮揚すると日本の経済力は増強される国の経済力は増強される事=国力増強に繋がり、(交渉能力さえあれば)国際的な発言力も強まる結果として外交力も強くなるだから、中国やロシアの圧力にも負けなくなると考えているこのような脱原発、再生可能エネルギー普...
人間について

人はなぜ死について考えるのであろう

脳と魂や死後の事を記事に書くといつもビックリするくらい賛否両論のコメントが来る、、それだけ死は人にとって関心のある事なのであろう有史以来、人は死について考え、死後について考え、そこから宗教が生まれ、神という存在をつくり、霊というような存在をつくってきた、昨日、脳=心=魂というテーマの記事中で死後や霊魂の存在について書いてみて、、今日なって思ったのだが、今この瞬間自分は生きている生きている限り、死後の事なんて分かる訳がないだとしたら、死や死後の事なんて考える事自体無意味な事ではないのか?脳内出血の死亡率は70%だというそんな死亡率の高い疾患に襲われ、幸いにも生き延びたのだから、生きる事を考える方が大事なのではないのか健常者の頃の自分もそう考えていたくちだ、、なのに、しかも僕は昨日の記事で、死後の世界や霊魂の存在を否定しているにも関わらず、半身不随になってからといもの、この4年間、何度も「祈った」これが現実でないように、、とか、奇跡的な回復をするように、とかである何に対して祈ったのか自分でもよくわからないやはり、死に直面した事により、死に対する怖れのようなものを感じたからなのだろうかただ、...
人間について

明日を信じる事

明日の話ができるという事は未来の話ができているという事だ!だから明日の話ができている限り未来があるという証拠だ確かに未来が良いか悪いかなんて分からないけれど、悪いとは限らない予測不能だからこそ未来なのだ僕のこの障害、、現代医学では完全回復はほぼ不可能だというけれど、それは今この瞬間の現代医学のことに過ぎない明日はどうなっているかは誰にも分からない明日、もしかしたら新しい治療法が発見されるかもしれないそんなの楽観過ぎるというかもしれないけれど、絶対にないとは誰にも言えないし、分からないはずだ分からないからこそ希望を持つ事ができるのだ明日の話ができている限り、未来はあり、その未来には何があるかは分からないだからこそ明日を信じ、未来を信じ希望を持ちたいと思うそう考えるように心がけているでも、痛みの激しいときはこんな風にはどうしても思えない痛みに堪えているとその痛みが未知の未来を全てネガティブに考えてしまう自分でまどうしようもなくなるのだ困ったものだ人間とはこれ程までに自分自身をコントロールできないものなのか、、いつでも未来を信じ、自分自身を信じたいと思っているに、、、