人間について

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生と死と生きざま

人間の人生とはいわば死への旅路ではないだろうか。生きとし生けるものがいつかは死に至る。これだけは誰にも避けることができない。どんなに順境の人生であろうと苦境の人生であろうと、最後は必ず死を迎える。自然の宿命である。だた人間だけがこの宿命を知って旅路に対処できるいつ死を迎えるかはわからないにしても、生きている間にこれだけのことはやっておきたいなどと考えることができるのだ。これは別に老人だけに限らないと思う。若者が来たるべき近人生に備えていろいろと計画するのもいわば死への準備にほかならないのではないか。死を恐れるのは人間の本能であるけれど死を怖れるよりもしの準備の無いことを怖れた方が良いのではないだろうか。いつ死んでもよいと思えるような準備・・それは決して「成功すること」ではないと思う。なぜならいわゆる「成功した人」が死を恐れないかというとそうではないからだ。僕は思います。結果はどうあれ自分の人生を精一杯生きたという自信がを持てた人こそが死を怖れない、死の準備ができた人と言えるのではないだろうか。振り返って、自分を見たとき、人生の半ばで障害者になるという大きな挫折を味わってしまったけれど、...
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死後が「無」であることこそ究極の解放であると思うが僕は生きる

死後は魂など残らないと僕は信じているなぜなら残ったその魂は究極の孤独を味わうであろうからであるその魂は愛する人と永久にコミュニケーションを持つことができないのだから、、それはつまり意識があるにも関わらず、人との「つながり」を持つことができないという残酷な状況であると思う、更に残った魂は生きてきた人生を振り返り、あらゆる後悔の念に苛まれて、苦しまなければならないであろう。 だからこそ、僕は死後は無であってほしい。 脳=魂であってほしい 脳死=魂の消滅そう信じている。死後が無であることは僕の半身麻痺という障害による不自由や激しい疼痛などの生の苦しみからの究極の解放であるのだから、、だから僕は本当に死が怖くない。死が無であることは、この3年間に味わった僕にとっての究極の生の苦しみからの究極の解放であるのだから、、 しかし、僕は生きるたとえ、死が今の生の苦しみからの究極の解放であっても、今を生きている限り 、生きているのだから、障害者ではあっても精一杯生きたい。それは生きているからこそ味わえる人との「つながり」を感じることができるから・・「人とのつながり」は人の心による自分の心の支えになるから...
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天命を待つ

やるだけのことはやった・・こんな身体でもやれるだけのことはやったつもりだ。インドの企業への太陽光発電パネルのつなぎ・・再生可能エネルギーファンド組成の準備のための各種根回しあとは結果がどうなるか待つしかない。人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、人間、「これだけのことをやったのだから、これだけの成果が出て欲しい」と願ってしまうものである。しかし世の中、こればっかりはそうはうまく行かないものである。焦る・・・焦りの気持ちはいけない。焦りの気持ちは判断を狂わせてしまう。焦りの気持ちは心をネガティブにしてしまう。そうなると意欲も萎えてくる。待つ・・・ただひたすら・・待つ焦る気持ちを抑えて・・天命を待つというは難しいものである。この身体で最善を尽くしたではないかと自分に言い聞かせる。これまでずっと待っていたではないか。半身麻痺のリハビリがそうだ。リハビリを始めてもう3年になるしかし一向に左手も左足も思うように動くようにならない。これだけ毎日努力をしているにも関わらず・・ただひたすらやるべきリハビリをやって、成果を待つもう3年・・もうダメではないか・・諦めたくなってしまう・・そんな結果がな...
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過去には戻れない

今日、息子と一緒に映画「スパイキッズ」を観に行ってきた。3D上映だったので子供向けの「特撮」ばかりの内容の薄い映画だと思っていたら意外とそうでもなかった。かなり見入ってしまった。根底に流れているテーマは「過去を振り返っても仕方がない。前を向いて生きよう」というものだった。映画の悪役は時間のスピードをコントロールできるという奴で、世界の時間のスピードをどんどん上げていき、一刻も早く世界にアルマゲドンを起こそうとするというストーリーだった。でも、この悪役には実はトラウマがあって、昔父親と楽しく一緒に過ごす時間がなかった。父親と過ごす時間が少なく愛してもらえなかったというトラウマがあり、過去に戻って父親との時間を取り戻したいという欲求から時間をコントロールできるようになり、そんな偏ったトラウマから世の中を逆恨みしているという設定だった。「過去に戻りたい」か・・僕も脳出血を起こす前に戻りたいと何度思ったことか・・でも、過去には戻れない。過去に戻って、泳ぎのの得意な父親に戻りたいと何度思ったことか・・そして息子に泳ぎを教えて、いっしょに海に潜りたいと何度思ったことか・・今日の映画を観て、そんな自...
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思い悩むのはやめよう

なぜ、痛いのかなぜ、こんなに苦しいのかなぜ、僕・・こんなに苦しまなければならないのかそんな事を考えるのはやめよう。思い悩んでも解決しないことではないか。思い悩むと心が折れてしまう。痛みとは闘うしかないんだ。痛みに負けたら死にたくなるだけだ。なぜ痛むんだ・・なぜこんな風になってしまったんだなぜ僕が・・そんなこと考えたって仕方ない僕は脳出血で半身麻痺の障害を負ったんだ。痛みや痺れとは闘うしかないんだ。耐えて乗り越えるんだ。それだけのことだ・・なぜ・・などと思い悩むから、心まで病んでくるんだ。体の「状況」と心の「状態」は別だ。体の「状況」に心の「状態」まで翻弄されてはいけない。心さえ乗り越えれば、幸せになれるんだ。幸せは「身体や周囲の状況」ではなく、心の「状態」なのだから・・
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「ごめんなさい」より「ありがとう」

僕が脳出血で半身不随となり、会社の破産させ、自己破産し自暴自棄になっていたころ、よく「ごめんなさい」という言葉を頻繁に口にしていたように思う。妻に対しては僕がこんな体になってごめんね。稼ぐことができなくなってごめんね。こんな障害者と暮らさなければが長くなってごめんね。息子に対してお父さんがこんな体になってごめんね。いっしょに遊ぶことができなくなってごめんね。でも最近僕は周囲に対してできる限り「ありがとう」と言うようにしている。例えば誰か(上司などに)に叱られたとき、「すみませんでした」「ごめんなさい」という人が多いであろう。でも「ごめんなさい」という言葉は「逃げ」になると思ったのです。「ごめんなさい」という謝罪の言葉はいう方も言われる方もネガティブな気持ちになるものだと思うから。。。だから叱れたときには「ありがとう」というのだ。つまり叱ってくれてありがとう・・という意味で・・「ありがとう」という言葉は人の心を前向きにさせると思う。ただそれだけの言葉で人の心は前向きになれるような気がする。だから妻に対しては僕といっしょに過ごしてくれて「ありがとう」ほとんど収入もないのに家計をやり繰りして...
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心を地獄から救うのは「笑う」という単純な行為。

先日、8歳上の従姉と実家で久しぶりに会った無昔から人を笑わせるのが得意な底抜けに明るい女性だった。いつも冗談ばかり言い周囲を笑わせるのが得意な女性だった。僕が半身麻痺になってから初めて会った。さすがの彼女も「大丈夫?」とか「頑張って」とか慰や激励の言葉があるかと思ったら顔を合わせた瞬間に冗談を言い始めた。。その冗談で自分が大笑いし始めた。。たわいもない冗談話ばかりである。僕の脳出血については一切触れない。。僕は少しポカンとしていたがそのうち、ツラれて笑い始めた。久しぶりに笑った。いつのまにか大笑いしていた。その笑いで辛さが吹っ飛んでいった気がした。笑いが心の地獄をふき吹き飛ばしてくれたんだ。笑おう。これからは・・笑えばどんな心の地獄も吹き飛ばしてくれるような気がする。笑う理由なんてどうでもよい。とにかく笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!笑おう!(^○^)この文字を見ているだけでも心がラクになってくる気がする人は思い切り食べて、思い切り寝て、思い切り笑うことで生きていけるような気がする。たったそれだけでどんな心の地獄からも救われるような気がするから・・
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一生に2種類の人生を味うことができているのかも

僕は脳出血で半身不随となってからというもの運動やスポーツというものが全くできない身体になってしまった。やむなくどちらかというといつも机に座って本を読んだりパソコンで仕事をしたりという生活をしている。最近はスポーツなど一切しないそんな生活にも慣れてきたような気がする。確かに左手は全く動かず、歩くにも苦労するけれど、以前のようにせっかちな自分は存在しなくなった。考えてみれば、人間には大きく分けて運動が好きな人間と嫌いな人間という2種類の人間がいるような気がする。いわゆるスポーツが好きでアウトドア活動が好きなタイプとスポーツが嫌いで読書や音楽鑑賞などが好きでパソコンにばかり向かっているいわゆるオタクタイプだ。脳卒中で倒れるまでは僕は前者だった。どちらかというと体力には自信があり走ること泳ぐことも好きなスポーツマンタイプだった。アウトドア活動が好きで若いころからスキューバダイビングやウィンドサーフィンなどのマリンスポーツに興じたものだ。僕の知り合いに僕は全く逆でアウトドア活動が極端に嫌いな友人がいた。彼は読書が好きでジャズなどの音楽鑑賞が大好きだった。南の島の仕事なんかに行っても、いっさい海に...
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気持ちのリセット

人間、ほんの小さなことでもよくないことが重なると気持ちのリセットが効かず気持ちが折れてしまうものだ。ほんの少しの怒り、ほんの少しの悲しみ、ほんの少しの失敗等々自分で抑え切れるはずのことも連続して起きてしまうと自分を見失ってしまうと思うものだと思う。僕の場合、痛み、痺れ、不自由さが毎日続いているのでときどき気持ちのリセットが効かず、気持ちが折れて激しい怒りと激しい悲しみに襲われることがあるそんなとき自分をリセットするための言葉を持っておくことが大切だと思う。僕の場合、「無私無欲」と唱えるようにしている。怒りや悲しみや不安などというものは自我が存在するから感じるネガティブな気持ちだと思う。仏や仙人でもない限り、生身の人間が自我を完全に無くすことなんて不可能だけど。「無私無欲」と唱えているだけで不思議と心が落ち着きを取り戻す。怒りも悲しみも悔しさも和らいでくる。本当に仙人のように自我を完全に無くすことができればどんなに楽だろう。そして客観的に冷静な判断ができ物事をし粛々と進めることができるだろうに。。
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「できないことはある」でも「できないことはない」

「できないことはある」でも「できないことはない」これはできないことがある現実を受け止め(受け入れるのではない)つつも、僕なりの「諦めない」という意味です。僕は左手は全廃なので左手で(普通に)お茶碗を持ってお茶漬けを食べることができません。そういうことさえできないという現実は「事実」ですし、受け止めています。でもお茶漬け自体を食べることができないわけではない。スプーンを使えば食べることはできる。そんな食べ方に自分が情けないと思うか思わないかは僕の心の問題に過ぎない。更に左手を右手で開いてあげてその上に茶碗を置き紐で縛りお茶漬けを入れれば(腕は多少動くので、)左手でお茶碗を持ってお茶漬けを食べることができるのだ。これが僕の「諦めない」ということだ。「できない」事実は受け止めなければ仕方がない。でもそれをそのまま「受け入れる」のではなく、「諦めず」さらに「工夫」さえすればできないことはないのだ。そこに希望が見つかればそれで良い。