人間の生き方

人間の生き方

僕にとっての生きる意味とは

生きる意味とは何かという問いかけに明確に答えることができる人は少ないのではないだろうか.僕も脳出血になる以前の健常者の頃は答えることができなかったと思う。危機感のダライ・ラマでさえ、あるときインタビュアーに「人間が生きる意味はなんですか」と問いかけられたとき「それは私にもわからない。しかし全ての人間は幸福を追求する権利がある」という答えだったらしい。あの世界的最高位の修行僧でさえ明確な答えはできなかったのだ。にも関わらず・・僕は今、なぜか明確に断言できる。少なくとも僕自身にとっての生きる意味が何かについては・・答えることができる僕の生きる意味は何度かこのブログの記事にも書いているけれど、「人とのつながりのために生きるのだ」と言い切ることができる。人とのつながり・・絆といわれるものかもしれない。どんなにお金があっても、どんなに何不自由のない裕福な生活をしていても人とのつながりがない人生なんて生きている意味がないと思うから。。。逆にどんなに貧しくとも沢山の人とのつながりのある人生は幸福ではないかと思う。僕は障害者になったことになって何度も何度も心の挫折感を味わった。動けない体で誰にも会うこ...
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守るべきものがあるということ

また一つ日本のモノづくり企業と海外を結びつけることができそうだ。優れた水処理技術を持つ企業とインドの財閥系の大企業とのジョイントベンチャーを進めることができそうだ。思ってもいない展開だ。こんな障害者の僕でもこんなことまでできるんだ。。。一時は何の役にも立たない人間になってしまったと感じていたことが嘘のようである。「人の役に立つ」このことが僕の脳出血で倒れて障害者となってからのこの3年間の目標でもあり志でもあった。大それた事を考えていたわけではない。ただ「人の役に立つ人間」でありたい。それだけだった。「人の役に立つ」ということは守るべきものがあるということではないだろうか。「役に立つ」ということはつまり困っている人(もしくは企業)を守ることにつながるのではないだろうか。僕は最低でも家族だけは守りたい。そう思っていた。にも関わらず、「人の役に立ちたい」そんな思いだけでただ、この身体でやれるだけのことをやってきただけだ。それが全く想定していなかったような大きな実を式結び始めているような気がする。全くの「想定外」である。ここにきて「想定外」だらけである。あるスポーツリーグのファンドの支援をして...
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不安でたまらないとき

不安になるときの最大の原因は「最悪の事態を想定できない」状態だと思う。最悪の事態を想定できれば「覚悟」ができる「覚悟」ができれば不安にならない。これからどうなるかわからないから不安になるのであると思う。こういう心理状態が一番よくないと思う。あの芥川龍之介が自殺する前「漠然とした不安」という言葉を使っている「漠然とした不安」これがいけない。その点僕は最悪の自体は想定できているだからある意味「覚悟」ができている。最悪の事態とは「再出血」であり、つまり「死」だ。僕の場合、今後7年間に再出血する確率は70%以上なのだ。極めて高確率である統計上ではあるが出血性のモヤモヤ病による脳出血後の再出血率は45歳から55歳の間で61.1%なので、僕は今48歳だか55歳まであと7年だから70%以上にはなっているだろう。そういわれると覚悟するしかない。そこにはあるものは「不安」ではない「覚悟」を持つしかないのだ。「そのとき」は道半ばかも知れない。無念かもしれない。でも後悔だけは残したくない。葉隠武士道に有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があるけどこの真意がここにきて初めて理解できたような気がす...
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怒りや悲しみを乗り越える。

僕の心は、ときどきひどい怒りや強烈な悲しみに襲われることがある。なぜ身体がこんなふうになってしまわなければならないのか。なぜ会社をつぶさなければならなかったのか。なぜこの身体で無職無収入にならなければならなかったのか。脳出血を起こしてからというものさまざまな怒りや悲しみに襲われてきた。それを乗り越えるために必要だったもの・・それは「志」であったと思う。その志は大きな大きなものである方が怒りや悲しみは薄れたような気がする。志とは「士(サムライ)」の「心」である。武士の心とは「武士は食わねど高楊枝」の言葉に尽きると思っている。つまり「自我を捨てること」でどんなに生活が窮していても満腹を装って楊枝を使う、つまりどんなに苦しくとも苦しさを見せず自我を捨て民のために闘うという姿ではないかと思う。だから「志」とはいわゆる「社会貢献」的なものでなければならないと思う。そんな志を持つことができれば、自分の怒りや悲しみなんて、それこそ自我の欲望の塊の結果現れる心のあり方であり、とてもとても小さなことに思えてくるものだ。そして志を持つことによってそんな小さな怒りや悲しみなんて吹き飛んでしまうものだと思う。...
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心で生きる

僕は今日突然あることに気がついた。僕の体は脳出血により不自由になったけれども、身体で充分に生きることはできなくても、僕は充分に心で生きることができるということだ。僕はこうやって右手だけだけれどもキーボードを使い、言葉を駆使して自分の気持ちを人に伝えることができるではないかということだ。もちろんしゃべることもできる。それだけで充分だ。つまりそれができるということは人と心を通わすことができるということだ。体が不自由でもそれだけで充分ではないかということに突然気がついた。僕が生きて行くために必要なことは人とのつながりつまり「絆」であると思う。そしてその「人とのつながり」を作るためには気持ちを伝える必要がある。僕はそれができるじゃないか。つまり人と心を通わせてことができる能力が残っているではないか。それだけで充分だ。人は気持ちで動くものだ。だとしたらきちんと心を通わせ気持ちを伝えることができれば身体が不自由であっても思う存分やりたいこともできるのではないか。自分の思いをしっかりと心を通わせ伝えることさえできれば、自分の身体でできないことでもできるのではないか。それが「心で生きる」ということだと...
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プライド

脳出血で、実に多くのものを失った。一時は自暴自棄にもなったけれど、でもプライドだけまだう失いたくない。 人としての男としての夫としてのそして父としての だからこそ人にやっかいになり、助けてもらわなければ生きていけないような人間にだけはなりたくない。そんなプライドだけはどんなに身体が苦しくとも失いたくない。決して大きなことなどできなくても良い。障害者でも人並みに役に立つ人間でありたい。人はお互いに支え合って生きている。そうやって人間社会は成り立っている自分も誰かを支えたい。そして、障害者でもそれができる事を証明したい。そんなプライドだけが後遺症の不自由さや身体の痛みにも耐えさせ、今の自分を支えている。だたそんなプライドだけが僕の生きる力かもしれない。
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与えられた生を生き抜く

人間、どんなに経済的に裕福でも、どんなに才能があり、いろいろな高い地位を得られたとしてもいつかは必ず、老い、病に伏し、死を迎える。ではなぜ人間は生きるのか何のために生きるのか僕は脳出血で半身不随になって以降、苦しみの連続だった。少なくとも僕にとって最大の苦しみの連続だった。そしてその苦しみは今でも続いている決して消えることはない。二度と使えない左手二度と走れない足、二度と泳げなくなった身体必死で築き上げた会社も失った。それだけではない。無職無収入という将来への恐怖何かあったときに動けない恐怖そして今でも続く左半身の痛みと痺れなぜ僕はこれほどまでに苦しまなければならないのか。この3年間何度も自問自答した。この僕の何が悪かったのか。。とでも何も悪いことなんてなかったことに気が付いた。それは決して僕が善人という意味ではなく、生きとし生けるものすべてが、その所業にかかわらず必ず老い、病に伏し、死を迎えるということだ。そして僕にもそれが訪れただけのことなのだ。それでも人間は生きなければならないのだ。それが人間なのだ。そんな誰しも避けることができない苦しみを乗り越え生きることが人間には課せられてい...
人間の生き方

「絆」と全く予測不能な僕の人生

人生とは不思議なものである特に僕の人生、自分で言うのもなんだけれども全く予測不能な人生を送っている。昔、今の自分を予測することは全く不可能だった。自分の人生が予測できないのは誰しも同じだと思うけれど、それにしてもこれほどまでに波乱万丈になるとは・・今、僕はなぜかある地方自治体のメガソーラープロジェクトファンドのプロジェクトファイナンスの組成に取り組んでいる。原発事故の問題により現在脚光を浴びつつあるメガソーラーによるエネルギー供給システムの実現をしようとしているのだ。僕は大学卒業後はある大企業の一人のエンジニアにすぎなかった。口下手で、生真面目なサラリーマンだった。それが何を思ったか大企業をスピンアウトし、全くエンジニアとは畑違いの経営コンサルタントの会社に転職してしまった。それからインターネットの普及に合わせて気に入ったのはIT系の会社だった。そして自分で事業を起こしてしまった。今から考えてももともと口下手で、生真面目な僕には無茶な行動だったと思う。案の定、営業が苦手な僕は経営に苦しんだ。生真面目さも手伝ってか会社の資金繰りに精神的に参ってしまいそうになっていた。そこに襲ったリーマン...
人間の生き方

不 安

ときどき不安で不安でたまらなくなるときがある.こんな障害を持った身体で、このまま歳をとっていったらどうなるのか、今は、40歳代だから、健常な右半身が丈夫だから、なんとか生きていけるけれどこの右半身が、老人になったとき、左半身を支えることができるだろうか。今は、右手だけで、タイピングをして、いろんなことができるけれど、このようなことがいつまで続けることができるだろうか不安を考え出したらきりがない。なぜ人間は、不安になるのだろう。生きとし生けるものの中で、人間だけが未来を予測し、それに対処するよう準備をすることができる。そしてその未来が予測できなくなったとき、人間は不安に陥るのではないだろうか。そもそも完全な未来予測などできるわけがない。世の中は不確実性に満ちている。しかしその不確実性自体、自然の摂理ではないだろうか春が来れば花が咲く、秋になれば葉は枯れ落ちる芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実を結ぶそしてかれるべきときには枯れてゆきやがて死を迎える自然の摂理に従った素直な態度である。そこには何の私心もなく、野心もない。無心であるだから自然は美しく秩序正しいしかし困ったことに人間は...
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逆境と順境

逆境、、、それは人間にとって与えられた尊い試練であり、この境遇に鍛えられてきた人間は誠に強靭であると思う。古来、偉大なる人は逆境にもまれながら、不屈の精神で生きぬいた経験を数多く持っているものだと思う。そんな意味で、逆境は誠に尊いものであるなどとやっと思えるようになってきた。過去の偉人が乗り越えてきた逆境に比べれば僕の片麻痺などというものは、逆境ともいえない小さなものかもしれない。それでも僕にとっては、僕のこれまでの人生にとっては最大の逆境であり苦境であることには違いない。別に、逆境に遭遇したから偉人になれるなどとに溺れているつもりはない。逆境も尊いけれど、順境も尊い要は、与えられた天命に対して素直に、謙虚に受け止め生きていけるかどうかだと思う。半身麻痺の不自由さは確かに苦しい。でも嘆いていても仕方がない。この身体で知恵を絞り生きてゆくしかないのだ。与えられたこの苦境を素直に受け止め、精一杯生きていくことができればそれで良いのではないだろうか素直さを失うと逆境は卑屈を生み、順境は自惚れを生むのではないだろうか自分の境遇に囚われることなく、また甘えることもなく、素直に与えられた運命を生き...