独り言

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闘っているときが最も輝いている

僕は脳出血で半身麻痺いう障害を負ってからやっと本気で真剣に人生を生きることができるようになったと思う。そして障害のおかげで、人はどう生きるべきかを真剣に考えるようになった障害者となってしまってから毎日が信じられないほど必死であった。ちっぽけなものかもしれないが僕が築き上げた多くのモノを失い、無収入になり、未来の希望までもまったく見えなくなった時期もあった。そんな中で、必死だった。本当に本当に生きるのに必死だった。ここの2年間は恥も外聞もなく必死だった。他人に遠慮している余裕もなかった。再出血の恐れもあり、明日をも知れぬこの命、本当真剣だったといえる。そして人間は「闘っている」ときが最も番輝くことができるんだという思いに至った。この2年間は少なくとも今の国会の政治家よりも必死だったと思う。そんな中で人を見るとき、人が真剣かどうかに敏感になった気がする。だからこそ真剣でないと感じる人(人生を闘っていない人)に対して怒りに近いものを感じてしまうのです。真剣に必死で闘っているときこそ僕は輝いていると感じることができるんだ。今までの甘ったれた人生から本当にそんなふうに思えるようになったこのことが...
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当り前にできたことができない悔しさ

今日も昔なら当り前にできたことができない悔しさを味わった。中途障害者の辛さはこういうときに味わってしまう。IKEYAという家具屋に今日行ってきた。ところがここセルフサービスなのです。このテレビ台が良いなと思い、近くにいたスタッフと思われる人に「これが欲しいのですがどうすれば良いですか。私はこの通り手足が不自由なので運ぶことができません」と聞いてみたところ、「ここはセルフサービスサービスなのでご自分でお願いします」と言われてしまった。悔しかった。以前なら当たり前にできた「物を運ぶ」ことができないのです。先天性の障害を持つ方のお気持ちは私には分かりませんが、少なくとも中途障害の辛さっていうのは以前はごく当たり前にできたことができなくなってしまうことにあると思います。そのためにたくさんのことをあきらめなければならない。2年経過した今でも、こういうことがあると、とても情けなくなり辛くなってしまいます。もう考えるのはやめよう。考えたって仕方ないことだ。出来ないものは逆立ちしてもできない。こうやってあきらめることが多くなった。でも回復はあきらめない。それが5年かかるか10年かかるか、あるいは20年...
人間の生き方

保護中: 私の本当の苦悩

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人間について

自分の存在価値と生きがいとやる気

若い人の間でニート、フリーターと言われる人たちはまだ増え続けているのだろうか。こういう人たちはよく目標ややりたい仕事が見つからないと言う。そのような状態は、太陽の明かりが雲に覆われて夜のように周りが真っ暗で身近にあるプラスの情報を見えにくくなっている状態だろう。それは決して明確な「壁」ではなく、漠然とした不安だけではないだろうか。とは言うものの、この「漠然とした不安」が一番厄介なのである。あの芥川龍之介の自殺の原因もその手記から「漠然とした不安」だと言われている。「漠然とした不安」というものはその不安の原因も「漠然」としているので明確にならない。だからいつまでも不安が払拭できない。これは大きな心のストレスになると思います.この状態が続くとうつ病になると思う原因がはっきりしていれば、その原因を排除すれば良いという明確な目標ができる。明確な目標は「希望」につながる2年前は僕も将来が真っ暗だった。それは決して世の中が真っ暗なのではなく僕の心が真っ暗だっただけであった。このことに気がついたのは、ずっと後になってからでした。そして障害者になった僕は自分の価値観を変えざる得なかった。価値観が変わる...
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僕にはできないことがあります。でも僕にしかできないこともあります。

障害者の僕にはできないことがあります。でも僕にしかできないこともあります。僕は障害者になって、たくさんのことができなくなりました。特に仕事においては、左手が動かないので、書類の扱いはとても苦手で遅くなりました。もちろんモノの持ち運びは大の苦手です。ちょっとした重いものはち運ぶことができません。しゃがむことができないので、パソコンのセットアップや電化製品のセットアップなどはできなくなりました。。素早く動くことはできません。立ち上がることさえ、まるで90代の老人のように愚鈍な動きです。人に頼まなければならないことはたくさんあります。でも僕にしかできないこともあります。障害者となってから2年間、僕にはたくさんの「考える時間」がありました。これは神様からもらった体の機能を失った代わりのご褒美だと思っています。そのもらった時間で、僕は社会に役立つことは何か。今、社会に必要なことは何かを十分に考えることができました。そしてそれが僕のき生き甲斐であり、希望になっています。具体的な社会貢献できる夢を考えることができました。多分この構想は、僕しか持ってないものです。これができれば、きっと世の中の役に立つ...
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音・・その「音」は孤独を癒す僕が障害を負ってまもない頃孤独感に苛まれた。一人で外に出られない一日中天井を見て過ごした日々・・息子や家内が外出するのが怖かった。この気持ちは体験した人にしかわからないであろう。。息子や家内が帰ってくると足音がする家の中でも・・ドアを閉める音床の軋む音物を置く音人が生活する音である。身近にひとがいる証拠であるこの音が心を寂しさから開放してくれた。家人が外出してしまうとこの「音」が消える。これが寂しい・・音それは僕にとって大切な人との「つながり」のように思えたのだった
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覚悟(自ら身銭を切るということ。リスクを負うということ)

企業経営者にしても、国の元首にしても、企業経営や国家運営については「覚悟」が必要だと思う。「自ら身銭を切るリスクを負う経営」これがあってこそ、本当の「覚悟」というものができるのであろう。その意味では、大企業の経営者より中小企業の経営者の方が、「覚悟」があると言えるのではないだろうか中小企業の銀行からの借入金はたいていの場合、社長の個人保証である。つまり会社が立ち行かなくなった時には、自分自身が返済していかなければならないのである。たとえば私は、倒れる前には約2000万円近く社長である僕が保証人となり銀行から借り入れをしていました。会社が倒産すれば、それは私個人の負債となり、金融機関から返済を迫られることになのである。1個人が2000万近くの借金をすることは大変な負担である。それこそ一家離散や自宅を追われる覚悟が必要だ。まさに、身銭を切るとはそういうことであると思う。大企業が銀行から、億単位借り入れをする際、その社長が自らの個人保証で借りることはまずないでしょう。だからたとえ会社が倒産したとしても、社長の座を追われるだけで、自らが個人で、負債背負うことは、まずないだろう。だから「覚悟」が...
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また息子に虚血発作が・・

今日、午前中小学校から電話があった。息子が、左の目のあたりと歯のあたりが痛いと訴えて保健室にきているという。息子の場合、単なる目の痛みや歯痛ではない可能性が高い。また虚血発作かもしれない!いやな感じだ。息子には僕のモヤモヤ病が遺伝している。息子もモヤモヤ病だと分かったのは、僕が脳出血で倒れた後の一昨年だった。幼稚園から連絡があり、息子さんが机から落ちて倒れたという連絡を受けたのは最初だった。僕の脳出血は僕がモヤモヤ病という基礎疾患に加え高血圧が重なったことが主な要因です。にもモヤモヤ病と言うのは難病指定されている脳血管に非常に細い毛細血管ができるという病気で小児の頃は、それが原因で虚血発作に発作が起こることは知っていた。僕が小児の頃は、適切な治癒方法がない状態だったので手の打ちようがなかった。しかし現在では脳血管のバイパス手術をすることでかなりの確率で治癒するということがわかったので、一昨年息子は、2回にわたって、脳血管バイパス手術を受けた。この手術は頭の半分を開頭するという非常にハードな手術である。この私も昨年の春に、再出血防止を目的に同じような脳血管バイパス手術を受けたが、術後の痛...
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菅政権の言う「熟議・議論」という国会議員の活動のムダ

最近、菅首相は、いや民主党全体が「議論をしよう」「議論をしよう」のオンパレードのような気がする今の通常国会も、熟議の国会にしたいなどと言っている。僕からすれば、「そんなものは無駄だ」といいたい。それと「案」や「ビジョン」が全くないことを証明しているようなものだと思う。どうせ議論をしたって何も決まらない。議論のための議論をしたって何の成果も出ない。単に「議論しよう」なんていうと、自分の意見を言いたい放題いうだけの状態になりやすいし、それぞれ自分の主張が正しいという論理を展開するだけであるどんな主張も「理」である限り、正当化しようと思えば、新たな「理」で理論武装出来るものだ。だから単に「議論をしよう」などということは全く徒労につ終わる可能性が高いものだ。、僕が考えるには、議論には「命題」が必ず必要だと思います。「命題」とは「案」と考えても良いでしょう。その「命題」に対して、反対か賛成かを明確にする議論であれば、価値があると思う。賛成多数であれば実行して、反対多数であれば実行しない。という「行動につながる」今の民主党政権には、こ「命題=「案」がないもんだから「議論を尽くそう」などという言葉で...
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心のやすらぎなど

心のやすらぎなど、もうどこにもない。この麻痺が元に戻らない限り心のやすらぎなどあり得ない。心のやすらぎなどずっと昔に忘れてしまった。毎日が麻痺との闘いなのだ。だからこの痛みも痺れも麻痺が元に戻らない限り癒されることはない。1日中麻痺との闘いなのだから、、、朝起きたときも、、、食事をする時も、、、着替えをする時も、、、靴を履くときも、、もちろん歩くときも、、階段などは強敵だ。生活のなかでいつもいつもいつも、四六時中闘い続けなければならない。だからこそ、心のやすらぎの記憶をわすれたい。そして、忘れるためには前を向き続け闘い続けるしかない。そのために、あらたな希望と志をもち続けるのだ。とてつもなく高い志を持つことこそが闘志の源泉になるから、、心のやすらぎの記憶を忘れることができるから、、決して休んじゃいけない休むんじゃない。少しでも休むと気持ちの糸が切れるぞ!気持ちの糸が切れたらお前はもうおしまいだぞ!