人間について

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感覚障害の世界

脳卒中による半身不随というとほとんどの人は手足が不自由「自由に動かないlこと」つまり運動麻痺をイメージするだろう。当たり前か・・でも脳卒中による障害とは運動麻痺だけではない。それこそ1000人の患者がいれば1000種類の後遺症(障害)がある。今日はその中でも第三者からはほとんどわかなない「感覚障害」について語ろうと思う。運動障害なら足の動きや手の動きが明らかに健常者に比べてぎこちないのですぐわかるが感覚障害については本人が口にするまでは絶対にわからないと思う。たとえ口にしても正確に伝えることが難しいのがほとんどではないだろうか。だからこそ医療関係者にも理解してもらえない。医療関係者に理解してもらえないから治療法(感覚障害のリハビリ手法)も確立できない。そんな状況ではないだろうか。今回僕は第三者、特に健常者にできる限り的確に伝わるのではないかと思う表現で書いてみることにトライする。僕が自分が「感覚障害」という障害のなんだと痛切に思い知らされたきっかけがある。それはあるとき、といってもリハビリ病院から退院してしばらくしたときのことだった。両親に車に乗せてもらって(僕は助手席に乗って「シート...
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全ての意欲である

人間の全ての行動の源泉は意欲である。そしてその意欲の源泉は希望であり、目標である。どんなに苦しくとも自分がこうしたいこうなりたい。それも、何が何でもこうしたい、何が何でもこうなりたいという希望というか志さえあれば、行動は起こせる。痛みにも耐える。不自由に対しても工夫する。問題はその希望がときに心から薄れるときがあることだ。これはいけない。それは環境のせいでもない痛みのせいでもない自らの心の中に志を達成したときのイメージができていないのだと思う志を達成したときの具体的イメージが細部までできていないレベルでは自分は、まだまだであると思う志を達成したときの具体的イメージが細部までしかもカラーでイメージできるまで心の修練をしよう。それでこそ心の中に本当の意味での意欲が芽生え、どんなに苦しい状況であってもそれを乗り越え具体的行動に移ることができるのだと思う。
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障害に「慣れる」なんて有り得ない

第三者からみれば、障害を負って3年も経過すれば、その人はその障害を受け止め、ある意味その障害に「慣れ」ていると感じているのではなかろうか。でも、絶対にそんな事は有り得ない!今後も、未来永劫、そんな事は有り得ない!先天性の障害者ならともかく(先天性の障害者が自分の障害をどんな風に感じているか僕にら分からないけれど)少なくとも中途障害者である僕には健常者の頃の元気な自分の記憶がしっかりとあり、それこそが「.本来の自分」であり、今の自分は偽物でしか有り得ない。ましてや、左片麻痺である僕には右半分に健常な自分が未だに存在するのだ!この右半分の健常な自分と記憶の中の健常者の自分がある限り永遠に障害を(受け止める事はしても)受け入れる事はないであろう。中途障害者が障害に「慣れる」なんて事は有り得ない。絶対に死ぬまで、、
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障害者の野望

僕は障害者になってから「障害者でも人の役に立ちたい」「障害者でも社会の役に立つことを証明したい」と思い続けてきた。なぜなら障害者になったからといって人に面倒を看てもわなけば生きていけないような人生は絶対に送りたくたいからだ。と思っていたところ、、ある本に出会った。難病に冒され苦しんだ経験のある人が書いた本だ。その本に書かれていた--------------------------------------------------------------------------------------難病、もしくは障害を負うことによって人は多くの人から「助け」をもらうだからよけ余計に社会に対して、少なくとも助けてもらった人たちのために「立派な人間」になりたいと願う。でもそれが負担になる周りはそんな「立派な人間」になってもらってほしいとは思っていない。あなたがあなたらしくその範囲で(障害者の範囲で?)楽しい人生を送ってくれればそれでいい誰もあなたに「立派な人間」になってほしいなどと思っていないそんなことを考えるとあなたの心の負担になり生きるのが余計に苦しくなるだけだ-------------...
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許せなかった「甘え」

日、コンビニエンスストアに行って買い物をして出てきたら、突然、薄汚い恰好の男が走り寄って来て情けなさそうな顔をして僕に向かって「私ね、今からJRの甲子口から山科(滋賀県の駅)まで帰らなきゃいけないんですけどね。800円いるんです。」「800円貸してもらえませんか?」僕・・「は?」おっさん・・「私ね病院退院したばかりなんです。」「800円恵んでください」おっさんの手をみたらコンビニエンスストア買ったと思われる弁当とか飲み物が入っている袋を持っている僕は急に怒りがこみ上げてきた。「おっさん歩けるんやろ!?」「それやったら山科まで歩いて帰れ!ボケ!」明らかに「甘え」だと思った。ホームレス予備軍である。昔友人で「あえて」ホームレスをした奴がいる彼曰く「彼らは決して不遇ではない!ただ怠惰なだけだということが分かった」と言い切っていたことを思い出した。僕はこの半身麻痺でしかも痺れる身体で僕は一家を養っているんだ!必死の思いで・・!だから「走り」寄ってきてコンビニで食べ物を買ったくせに交通費を物乞いにきたことが許せなかった。お前!走れるんだろ!しかも五体満足!手も足も動くじゃないか!とっさにそう思っ...
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捉われ・・

捉われ・・それは人を、僕を苦しめる捉われ・・それは「こだわり」でもあり、あるいは「プライド」とも言うこんな僕にも「こだわり」や「プライド」はあった。学生の頃水泳選手だった僕はそれなりに体力には自信があった。理系・技術系でありながら、経営コンサルタントの仕事の経験もあり、っ小さいながら自分で会社も興したから「経営者」という自負も多少あったIT系に移っていたから時代の最先端を走っているという自負それらはすべて障害者となったとき「捉われ」となって僕を苦しめたなぜならそれらすべてを喪失したのだから異常なほどに・・苦しめた。何度も死のう思った今でも同じである一昨日コンビニで800円を恵んでほしいと走り寄ってきたオッサンに腹が立ったのも自分が障害者でも頑張っているという「捉われ(自負?)」があったからだと思う捉われはそれを否定されたとき、あるいは認めてもらえないときそして喪失したとき人を苦しめる。その苦しみは怒りや悲しみに変わる。そして怒りや悲しみは人を許せなくする心が狭く小さくなるだから「捉われ」はいけない。「何事にも捉われない心」を持ちたいものだ。しかし、障害に捉われている自分が今ここにいるま...
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やっぱり言われた「慣れるしかない」と・・

今日何気なく・・家内に・・玄関で靴を履くときにいつものように時間がかかっていて僕が「もうかなわんわ!この身体!」と言ったら家内は「慣れるしかないやん」やっぱりそう思っているんだ。違う!絶対にこの片麻痺という不自由や痛みに「慣れる」ことなんかあり得ない!「耐えるんだよ!」と叫びたかったけど・・やめた・・わからなくても仕方がないことが分かるから・・理解しろという方が酷なことも分かっている。そんなこと言ったって家内は辛い思いをするだけ・・だったら僕が耐えればそれでいい・・それでいいんだ!でも絶対にいつかいつかいつか必ず回復してやるという気構えだけは心から捨てない。それだけで十分さ
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「死ぬ事」よりも辛い「生きる」って存在する

僕ははじめて死よりも辛い「生」というものが存在することを知った。僕は健常者の頃、死が怖かった(誰でもそうだと思うけど、違うかな?・・)正直、もし死ぬのなら、もう生きていたくないというほど苦しんで死にたい。つまり「死が恐い」という状態で死を迎えたくないと思っていたもっと簡単に言うと「死にたいと思って死を迎えたい」と思っていた僕の知っている人でヤクザまがいの人がいるその人はいつも「俺は死ぬのなんか怖くいない!」と啖呵を切っていたその人が数年前、癌を宣告され、余命を宣告されたそのとき僕に打ち明けた夜、死が怖くて涙で布団がずぶ濡れになったと・・人間ってそれほどまでに死が怖いのだ。だから「死が恐い」という状態で死を迎えたくないと思っていた障害者になることによってその願いというか、思いが皮肉にも叶ってしまった僕は半身不随という障害を負うことによって、とてつもない不自由を強いられ、またその痛みと痺れに襲われ続けるという苦しみを強いられることによって僕ははじめて「死」よりも辛い「生」というものが存在することを知ったような気がするこの3年間に何度死にたいと思ったことか・・障害を負った当初自分の会社を破産...
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僕の使命

僕に使命というものがあるとすればあなた(妻)やあなた方(妻と息子達身内)を人並みに幸せにすることそして、今僕がやっていることがそのために価値があると信じているからこそ僕は頑張れるドン・キホーテのように見えているかもしれないけれどそんな価値があると信じれることがあることが僕の希望ですあなたやあなた方が幸せになったとき「もうがんばらなくていいいよね」って言わせてくださいそして苦しみから僕を解き放ってください。お願いします。
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苦しみの根源と執着心

苦しみの根源は釈迦の言うとおりやっぱり確かに執着心だと思う執着心といっても漠然としているけれどあらゆる欲望(金銭欲、名誉欲、幸福欲・・等々)こだわり、思い入れ、野心希望や願いまでもが執着であり、苦しみの原因ではないかと思うそしてその執着している対象(愛する人かもしれないし、自分の状況かもしれないし、自分の誇る身体かもしれない)を喪失することを人は最も恐れると思う。その喪失への恐れこそが心に悲しみを生み、怒りを生み、憎しみを生み、そして人はうろたえる。更に喪失してしまったとき、その怒りや悲しみや憎しみや怒りは頂点に達して人は暴挙に至るのではないかと思う。暴挙とは人の心を傷つけるだけでなく自らの心をもを自ら傷付けること・・自暴自棄になる・・僕自身がそうだったから、、僕が脳出血で半身麻痺になったときに執着していたもの・・それは失って初めてそれに強烈に執着していたことに気付いた・・・自分の会社・多少自信のあった自分の身体・父親としてのプライド・夫ととしてのプライド・自分の車もっともっとくだらいものやまだまだ数えきれないほどのものに執着があったっと思う。そしてそれらのすべてを失った本当に執着心が...