人間の生き方

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信じる心の大切さ

自分を信じる 相手を信じる科学的、あるいは統計的データなどなくても「信じる」という心の行為によって好転することが沢山あると思う。それは神様を信じるというようなことは全く別ものだ。神様とか、「見えない力」なんてどうでも良い。そもそも存在が証明できていないものなんかに依存すべきではないと思う。そういう考えは非常に危険だと思う。なぜなら、神様とか信じている「存在」が無いと分かったときには、究極の失望感を味わうことになってしまうからだ。それこそ究極の絶望を味わうことになってしまうだろう。そんなものよりも今目の前に現実に存在している生身の人間の力を信じる、そしてその人間の人智を信じるということがとても大切ではないか。存在しないものや目に見えない不確かなものを信じること自体バカげている。理詰めで考えなければ納得出来ない僕(苦笑)は次のように理解している。「信じる」という心の行為は「脳が信じるという働きをする」ことだと思う。信じるということによって、たとえ根拠がなくても心が前向きになれる。結果として脳が良い方向に活性化する。脳が良い方向に活性化することによって、脳が人間の体に「前向きな指令」を出す。...
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喪失感や喪失の不安から脱け出す方法

人間にとって「喪失」することを最も恐れることだと思います。僕も体の機能の喪失、自分の会社の喪失、そんな喪失感に苦しみました。そこから抜け出すためにもいろいろ苦しみました。どうすればこの喪失感の苦しみから逃れることができるのか。自分で必死で気持ちをコントロールしようといたしました。僕は脳出血で脳を損傷してしまったので、何とかして回復することが出来ないかと思い「脳」に関する書物を読みあさりました。その中に喪失感や喪失の不安から脱け出すためのヒントがありました。それは脳の機能は「「脳の回路は使わなければ失う」という特徴を利用したものです。つまりに過去にどんなに勉強をしてもその能力(勉強によって構築された脳の回路)を使わなければいずれ失ってしまい、勉強したことすら忘れてしまうことです。その逆に脳は「使えば使うほど強化される」というものです。脳はいくつになっても「使えば使うほど回路が強化(再構築)される」らしいのです。これを脳の可塑性と言うらしいです。この脳の可塑性というものは、以前のは生まれてから2、3歳までの脳の成長期にしかないものと思われていたそうですが、人間の脳はいくら歳をとってもこの可...
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生々しい現実か、崇高な理想か

今、役所広司主演の「13人の刺客」という映画を観終わった。武士道をテーマにした感動する映画かと思ってレンタルした。でも、残念ながら期待した内容ではなかった。なぜならこの映画は生々しい現実、つまり人間の中に潜む醜い欲望や残虐性を描いた映画だったからだ。最近、このような映画が増えたように思う。北野たけし監督の映画でもそんな生々しい現実を描いた映画が多いように思う。生々しい現実・・そんな現実を描いた映画や小説が本当に素晴らしいのだろうか?それは生々しい現実を受け入れることが大切だと言うのだろうか?理想を描いた映画や小説はダメなのだろうか?この映画を見て僕が思ったことは、生々しい現実を知ることに大きな意義はない。そして生々しい人間の中に潜む醜い欲望や残虐性などを知り、受け入れる必要もない。どんなに現実が醜いものであっても、崇高な理想を追い求める姿にこそ人間の生きるべき本筋があるのではないかそんな姿こそ、美しく感動するのではないだろうか生々しい現実は知る必要はあっても、受け入れる必要はないと思うのだ。それは僕にも当てはまるからだ。障害という苦しい現実を知る必要があっても、現実を受け入れる必要はな...
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お前はこれまで本当に真剣だったか?本当の挫折こそ、生きる力の源泉であり成功の母である

挫折が一度もない人生を送る人間なんてこの世にいないだろう。挫折は絶対に乗り越えなければならない。挫折を乗り越えれば必ず心が強くなっている新たな知恵も備わっているものだ。人間が生きようとする力がある限り必死で挫折を乗り越えようと頭をフル回転させるからだ。僕も2年半前の脳出血からこれまでの間、それまでの45年の人生では使ったことのないようなレベルで頭はフル回転していたと思う。心も来る日も来る日も、何度も、何度も、これでもかと言うくらい叩きのめされ結果として強くなったと思う。今の自分は発症以前とは全く違う自分になっているような気がする。ここまで来れたのは、自分で言うのもなんだが自分の生命力を信じたことと希望を捨てなかった結果だと思う。心を強く持ち、必死で知恵を巡らせば、良いアイデアや必ずチャンスが見えて来るものだと思う。ダメだと思ったらその瞬間に意欲がなくなり、知恵もアイデアも湧かない僕は健常者の頃、これほどまでに必死になったことがあるだろうか。いやなかったと思う。確かに会社に見合わぬ大きな借金を抱えてはいたけれど、本当の意味で「真剣」ではなかったのではないだろうか。「真剣とは・・僕は思う。...
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甘えか甘ったれか

甘えと言う言葉は日本語以外にはないそうです。なぜなら、これは日本人の特性によるものだからだそうです甘えとは相手が「分かってくれている」という前提で行動することだからです。だから相手が想定がいの反応や行動をすると、「すねる」「ひがむ」「恨む」という心理状態になるわけです。特に日本人は「暗黙の了解」や「暗黙のルール」などを信頼する傾向にあるためにこのような「甘え」が生じるそうです。いわゆる以心伝心を大切にするがために起こる現象なのだそうです。だから甘えは甘ったれとは意味が違います。甘えの行動は日本人独特の行動様式なのだそうです.その意味で「甘え」とは日本人にとっては当たり前の行動様式なので基本的には無自覚だそうです。しかも「甘え」とは悪い意味ではなく欧米人にはない日本人の良い特性の一つだとも言えるそうです。しかし「甘ったれ」とは、自ら良く思われたいとか好かれたいという自意識の元に行動することだそうです。そんなふうに考えると最近、僕は自分が「甘ったれ」ではないかと感じる。自分が障害者であること(日々のつらさや悔しさ)を「分かって欲しい」という自意識があるような気がするいや確実にあると感じる。...
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すばらしき人生とは

すばらしき人生とは決して事業に成功することでもなく、100歳まで生きて天寿を全うすることでもない。悲しい人生とは途中で事故や病気に襲われることや事業に失敗することが悲しい人生とは限らないたとえ事業に成功し、莫大な財産を築いたとしても、周りから疎まれたり憎まれたりして、そして少しでも手を抜いた生き方だったとしたらそれこそが悲しい人生だよ。たとえ道半ばで死んだとしても、たとえ病気ばかりの苦しい人生だったとしてもたとえ事業に失敗したとしても、たとえ力や能力がなくて、失敗ばかりで何も遺せなかったとしても最期まで精いっぱい自分の力の限り生きることができたなら、そして死ぬ瞬間まで周りの人たちから愛されていたのなら、そして惜しまれて死ぬことができたのなら、それこそがすばらしき人生だよ。今回の震災で無くなった方々へ・・
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人は殺されでもしない限り、どんなに苦しくても生きなければならない。

人は殺されない限り生きなければならない。人は殺されでもしない限り、どんなに苦しくとも生きなければならない宿命なのだ。どんなに苦しく痛い病気になろうとも、その苦しみがどんなに続こうとも今回の震災の多くのく被災者のように愛する人が死んでしまって路頭に迷うような苦境に陥り孤独で、孤独で、不安で不安でそれほどまでに孤独で苦しくても生きなければならない。それでも自ら死を選ぶことは基本的に許されないのだ。「生きることは尊いことだからぬのはいけない」とか「命は大切だから生きなければならない」などと分かったようなことを言う人もいるが、生きるということはそんな生易しいものではないのだ。どんなに苦しくても生きさせられるのだ。僕も脳出血を患い、半身不随という障害者になったことによって、多くのものを失い苦しんだ。自分なりに苦しんで苦しんで苦しみ抜いた。会社も破産して、自己破産もして、築き上げてきたものを何もかも失ったそして体の多くの機能を失ってしまった。そのため普通の仕事に就くことも出来ず、無職無収入という絶望的な状態に陥り、未来が全く見えない状態だった。その上延々と続く後遺症も猛烈な痛みと痺れに一分一秒延々...
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言魂が僕に生きる力を与えてくれた

今朝は特に痺れがひどく、脳が僕からリアリティーを奪い去って苦しい状況が続いた。そんなリアリティを無くしてしまった僕の感覚にリアリティを取り戻したものがある。それは7歳の僕の息子の言魂だった。僕の息子は人一倍声が良く通り声が大きいのだ。小学校の地元の警察による防犯教室でもクラスで一番声の大きい子供として選ばれ悪い人に連れて行かれそうになったときに「やめて~!誰か助けて~!」と叫ぶ練習をするための代表になったほどでかい声なのだ(苦笑)そのでかい声で「ただいま~!」それだけの言葉だった。それだけで僕に生気を取り戻されてくれた。そして早速、僕に玩具を買ってもらうことをねだろうとあの手この手で、子供なりに話しかけてくるのだ。大きな声で・・(笑)そんな息子の「声」が耳に入るとその声が僕を父親として必要としてくれていると感じさせてくれた。その声が僕にリアリティを戻してくれたのだ。人は言葉で元気づけられ、言葉で傷つく。そして「声」で人ともつながりを感じ、他人の元気な声での「声掛け」で自分も元気が出る。言魂という言葉があるけれど、決して霊的なものではなく、「人の声」がそして人も言葉が脳を刺激し、活性化さ...
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生き方をコミットメントする

僕はこれまでの人生においてあらゆる場面で、自分の行動に対してコミットメントしてきたつもりだ。コミットメントとは自分自身に「公約」「誓約」「約束」などを意味する。コミットメントしたからにはどんなに苦しくとも、大きな壁が立ちはだかろうと、弱音も吐かず、言い訳もしない。一度コミットメントしたからにはそこに言い訳をしたり、弱音を吐くことは自分自身の生き方を否定することを意味することであると思うから、、僕は今の妻と結婚するときに、結婚してから1年ほどたったころのことだがなぜかその時期に、自分自身で自分自身の心の中で「彼女を妻として彼女の夫として生きる」というコミットメントをしたことをはっきりと覚えている。だからたとえ体が不自由になった今でもその自分自身への「誓約」「約束」を破ることはできない。そして子供が生まれたときも同じだ。彼の父親として生きることをコメットミントきたはずではないか。だから意地でも父親としての役割を果たす。たとえ今後、体の不自由な邪魔な父親だなどと疎まれも、煩い父親だと嫌われても役割を果たす。そんなに気負わなくても良いじゃないと言われるかもしれないけれど、その心の軸がぶれてしま...
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苦境こそが知恵と工夫を生む。工夫の人生も存外楽しい。

苦境になんて出会いたくない。順風満帆の人生に越したことはない。健常者の頃そんなふうに思っていたこともあるけれど、今は意外とそうでもないのではないかと思ったりしている。僕は脳出血により中途障害という苦境に陥り一時は無職無収入という状態だったけれど、だからこそ必死で工夫したと思う。必死で知恵を使ったと思う。これまで生きてきた中で、これほどまでに必死に知恵を使い工夫したことはないのではないかと思う。工夫に満ちた人生の案外良いものではないかと思う。おかげで僕は人間の脳に関してはかなりの知識を得ることができた。その辺の医学生よりも、いや脳神経科の医師よりも脳に関する知識があるのではないかと感じる例えば・脳の損傷するということが人間にとってどういうことなのか。・脳がどんな働きをし、どうすれば回復するのか。・回復の限界はどの程度なのか等々の知識は医師や医学生などよりもずっと深い知識として持つことができたのではないか。なぜなら、僕は必死だったから・・・自身が回復することを願い、必死で脳に関する書物を読みあさったからこそ、実体験も合わせて、本物の知識として得ることができたように感じている。そして後遺症に...