人間の生き方

人間の生き方

闘い続けるんだ、、一生!

闘い続けるんだ!この半身麻痺の障害と、、男は闘うものだから、、一生ね・・・そしては弱音は吐かない絶対にね闘い続けろ闘い続けるんだ身体の機能障害という敵が立ち塞がる限り、、闘い続けるいつまでもいつまでもこの闘いに終わりはないでも絶対に負けないそれが男の生き方だと信じているからただそれだけiPhoneからの投稿
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心だけでも武士のようでありたい

今の時代に侍なんて存在しないけど、僕は今自分の心だけでも武士のようでありたいと思っている半身不随という障害者になって僕はこれまでいろんなことに嘆いてきた。いろんなことに悲しんできた。自分の人生を恨みもした。自分の不遇に対して怒りに打ち震えたこともある。でも、どんなに怒りにうち震えようがどんなに悲しもうが、この運命が変わりはしない。障害が治るわけでもない。この運命を受け入れて生き抜いていくしかないのだ。だとしたら、自分の人生がどんなに理不尽だと感じようが、泣き言は言いたくない。人前ではもちろん泣き言など言わないが、自分の心の中でも思いたくもない。そんなことを心の中で感じているだけで、思っているだけで、自分の人生が情けなくなってくるだから自分の人生がどんなに理不尽だと感じようとも、どんなに苦しくても一切泣き言を言わない、そんな昔の日本の武士のような心に僕はなりたいそして自分に与えられた役割を(それが何かわからないけど)、それがどんなに小さな役割でも泣き言いわず、全うしてから死にたいと思っている。そうすればきっと後悔のない人生にできると思うから、、
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障害者になったことは不幸ではない

僕が障害者になった事は決して「不幸」なんかではない。ちょっと不運だっただけさ、これを不幸にするかどうかはこれからの僕の生き方で変わる少なくとも身体的障害が絶対的に人の人生を不幸にするものではない不幸になるかどうかはその後の本人の心の持ち方次第さ。iPhoneからの投稿
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より充実し人間味のある人生

障害者になる前の僕は正直言って薄っぺらな人間だったと思う経済的成功求めつつ、早期に引退して、将来は海外のリゾートなんかで、のんびりと過ごす、、などという生き方ができれば充実した人生になるのではないかなどとと考えていたように思うそれに比べて今は、そんな理想とは全く正反対の生活をしている。体の不自由な毎日が苦しい、その上経済的にもギリギリの状態であるその代わり毎日が、一分一秒が真剣である。例えば歩くということの中でさえ左足を一歩踏み出す瞬間は真剣であるちょっとでも気を緩めると転倒して大怪我をする可能性があるから・・僕のそれ(45歳で倒れるまで)までの人生でこれほどまでに瞬間、瞬間を真剣に生きたことがあるだろうかそしてこの4年間ほど「人間が生きる」ということについて深く考えた事があるだろうか障害を負ったおかげで、僕は経済的成功によりのんびりと優雅な人生を送る人よりずっとずっと人間らしく、一分の隙もないほど毎日が充実していると思うそしてより地に足の着いた暮らしをしていると思う。どちらが幸せなのかは価値観によっても変わるだろうけど、少なくとも僕は今、一瞬、一瞬を「後悔のない生き方」をしていると自...
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僕の歴史に「もし」はない

最近、夢見が悪い、、というか、変な夢のせいで、寝起きがメチャメチャ悪い、昔の事ばっかり夢を見る、、昔勤めていた会社やその友人、、もし、違う会社に勤めていたら、もし、あの会社を辞めていなかったら果てはもし、あの人(女性)と一緒になっていたら、、まで・・僕は今まで仕事を転々としてきた口だ。最後に自分で起業してその挙句、脳出血で倒れてしまいこのザマだ。自分の生きたいように生きてきたつもり、、、何の後悔もないはずだと思っていたはずだけど、障害者となってしまった今、心のどこかで、もう一度人生をやり直してみたいと感じているのかもしれない、だから「もし~だったら、、」というような夢を見るのかもしれないでも、夢の最後には今の障害者の自分と今の家族が居るそして、ホッとしている僕がいるやっぱり今の自分を肯定しなきゃいけないとも思っているようだ。こんな夢をみた朝は起きてしばらくは目の前に見える部屋の風景にどうも現実味がない。でも、しばらく時間が経てば元の自分に戻っているそして思う僕の歴史に「もし」はない!そんな過去を振り返ってみたところで何も変わりはしないそれよりも未来をしっかりと見つめようせっかく少しずつ...
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健常者の方へ

健常者の方へ伝えたいこと・・それは障害者は決してその障害に慣れてなんかいないそして障害「を受け入れて」なんかいないということです。なぜこんなことを書くのかというと、僕自身が健常者の頃そう思っていたからです障害者はその障害を受け入れて、そして障害に慣れて生きているその障害と「うまく付き合って生きている」と思っていた。でも僕自身が障害者になってわかったことは人間、障害を「受け入れる」なんて不可能だということそしてそれは5年経とうが、10年経とうが、50年経とうが同じなんですたぶん僕は自分の障害を一生受け入れることはできません。でも「受け止める」ことはします。受け止めざる得ないから・・「受け止めて」も、決して「受け入れ」ない(正しくは受け入れることなんてできないのです)一生涯葛藤しているだろうし、一生涯苦しんでいるのです。だから僕は「障害受容」という言葉が大っきらいです。医者が障害者を説得するために作った言葉に過ぎないと思っていますもっと言うと医師自信が患者の回復を諦め、障害を受け入れさせるための医療者側の「責任放棄」の言葉だとさえ思えるのだましてや「障害に慣れる」なんてことはあり得ない日々...
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人生王道を歩むのは難しい

王道・・王道を歩みながら生きるのは誠に難しい王道とは僕なりの解釈ではいわゆる正攻法というか、松下幸之助流に言うと「自然の理法」にかなった生き方というものだと思う。王道を歩んでこそ、本物の人生の成功(経済的成功ではなく)を納めることができるのだろう。しかし人生、王道を歩むのは実に難しいと思うややもすると、(様々な「虫の良い事」に心が誘惑され)脇道に逸れがちになるものだ王道とは地道であり、目に見える成果が出難いものだ一見徒労のようにも思えるものだだから、今自分が歩んでいる道が本当にこれで良いのか疑心暗鬼になってしまうそのこに虫の良い誘惑が来るとつい心が揺れ、脇道に入ろうとしてしまう。脇道は近道かもしれないが、その分危険が多くあるものだ。僕自身自分のリハビリについてそう感じる。毎週リハビリを続けてもう4年・・特に目立った回復はないだから気が焦る・・そこへおかしな民間療法やスピリチュアルとかを標ぼうするの輩が近づいてくると心がどうしても揺らいでしまうそれでも心をまっすぐに持ち続け、ただひたすらに王道を行くのは難しい・・先日の中国からのオファーに僕の心は揺らいでしまったもしあのとき、開発者の毅然...
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男(人間)としての生き方って

男、いや、人間にとって死にざまも大事ではあろう、しかし、生きることのほうがさらに大事であり困難で苦しいものだと障害者になってからつくづく感じる死ぬことより、本当に生きることの方が苦しくて辛いでも苦しいからといって、困難だからといって諦めて、死に急ぎをすることが決して潔いとは思わない
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人生の成功は結果より生き様

人生の成功は結果より生き様だどのような結果を出したかよりもどのように生きたかの方が大切だそう思うように心掛けているなぜならこんな身体で「結果を追いかける」と結果を出すための行動が思うようにできないという苛立ち、の方が先走り、心が焦り、いつまでも結果が出ないことに心が萎えてしまいそうになるからだでも、やっぱり結果を追いかけてしまう自分がいる元零細とはいえ経営者だったという宿命かな・・ビジネスは確かに結果が全てだ政治家なんかもそうかもしれないでも今僕がこの身体で結果を追いかけてしまうと・・結局、(大きな事でなくても、ほんの小さな事さえ)結果が出ず情けない自分に悔情けなくなり、悔しい思いに打ちひしがれ、、気持が沈んでしまうでもそんなときこそ人生の成功は結果より生き様だと自分に叫び言い聞かせているそう思うことによって萎えてしまいそうになる心を僕はいつも必死で支えている
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日々苦悶、堪忍

障害者になるという事、、そして、障害者として生きるという事、これは想像を絶する苦悶と堪忍の日々である障害、、単に障害というけれど、何の障害になるのか?分かるだろうか?それは、生きる障害なのだ身体に障害を持つという事は「生きるために最低限必要な事ができなくなる」という事なのだ分かるだろうかよく、できなくなった事に目を向けるななどと言う人(医師やカウンセラーも含め)がいるけれど、、その理由はできなくなった事にいつまでも囚われていると辛くなるだけだから、と言われるこれは健常者だから言える事だ詭弁としか思えない。生きるために最低限必要な動作ができなくなるという事、、それは、僕の場合、左半身が動かない事により、手で持つ、掴む、放す、入れる等々、そして、歩く、しゃがむ、そんな当たり前の事ができなくなるのだ、そういう動作をしなくて済むなら目を向けずに済むだろう簡単な話、僕はお椀を持って味噌汁を飲む事ができない。御茶碗を持ってご飯を食べる事ができない。なぜなら、左手で器を「持つ」事ができないから、、下に落ちた物を取るのに酷く苦労するなぜなら、しゃがむ事ができないから。。これらは日常生活で最低限必要な動...