人間の生き方

遠い遠い見えない目標

遠い遠い見えない目標遠い遠いいつ達成できるか出来るかわからないそんな目標・・脳卒中による後遺症による肢体麻痺患者の人達にとって、麻痺の回復というものはそんな果てしない目標なのです。他の病気(癌などの不治の病以外)ならある程度回復するために必要な時間というものが予測でき、どの程度の時間を頑張り続ければ良いのかわかるものだ。「あと1週間がんばってください。そうすれば必ず良くなります。」そう言ってくれれば、がんばろうという気持ちにもなる。しかし「いつ回復するか分かりません。」などと言われる状態では頑張り続けるのは苦しいものだ。でも脳卒中による後遺症についてはいくらリハビリをしても回復にかかる時間は全くわからないといって良い。確かに脳には可塑性という代償機能というものがあるということは現代医学で分かっている。その可塑性という代償機能により損傷した脳がどの程度の期間で回復するのかということは全く分かっていない。回復は、年単位という非常に長いスパンでしかも少しずつ回復するというものであり後遺症の症状も100者100様なので統計が取れていないというのが現実だろう。だから回復するために、1年かかるか5...
人間について

心の柔軟性が人類の限りないの生成発展の源泉

かのダーウィンもいっていますが、「一度正しいとされたとは、常識」されてしまい疑うことをしなくなる。これは科学の発展きわめて有害である。」と・・これはビジネスの世界でも同じであると思う。特に役所などこの傾向が強いように思う。既存の価値観やと囚われの心を捨て、無垢な子供のように素直な心で物事を考えてみれば、そこに疑問や矛盾が見えてくるのではないだろうか。こういった素直な視点は心の柔軟性を生み、新しい発想や知恵の源泉だと思う。人間というもの自分の経験に基づく「こだわり」というものは捨て難いものだ。それは自分が過去から積み上げてきたプライドでもあるからだ。ときにこのプライドは良い意味でのが頑固さであり、妥協のない力強さの源泉となるが、一つ間違えると囚われの心により物事を正しく客観的に私心なく観察できず、新しいモノを生むことを阻害する。これは人の人生にも言えることで、過去に囚われると次の一歩が踏み出せない。人間、人生の中では何が起こるかわからない。否が応でも過去を捨てさせられることが起こるものだ。そんなとき、過去にとらわれ、私心にとらわれるといつまでも次の一歩が出ず、前に向くこともできず、希望も...
人間の生き方

生きることは死ぬことと見つけたり

葉隠武士道の真髄の言葉に、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があります。僕は健常者の頃、日本刀を海外に向けて販売していました。その時この葉隠武士道というものの存在を知りました。そしてこの言葉を初めて聞きました。当時は何を言っているのか全くわかりませんでした。武士道=死ぬこと・・なんじゃそりゃ、死んでしまったら何もかもおしまいじゃないか。などと思っていました。でも脳出血で生死をさまよい、そのあげくに障害者となった今、この言葉の意味することがわかるような気がするようになってきた気がします。そして僕は、僕なりの解釈で決して武士道だけでなく、全ての人間にあてはまるものではないかと思うのです。僕なりにいいかえると「生きることは死ぬことと見つけたり」ということになるだろう。人間は生まれた瞬間から、死への旅路が始まったと言えよう。人間、いつか必ず死ぬのである。こればかりはどんな人間でも避けることは不可能だ。だとすれば死ぬときに、どのように死ぬかということがとても重要なことだと思うようになった。僕が思うに自分の人生を振り返って、「後悔のない人生」であることが最も大切なことではないかと思う。つ...
人間について

生まれて初めて死を覚悟した瞬間

初めて死を覚悟した時 僕が生まれて初めて死を覚悟したのは昨年三月の脳血管バイパス手術の時だった。出血性もやもや病の場合再出血の危険性があるということでそのリスクを少しでも減らすための手術でした。血管同士の直接吻合をする手術でした。直径 0.2ミリの血管同士を吻合するという難易度の高い手術だった。しかもそれは顕微鏡を見ながらの手技による手術だった。人間が手技で行う以上、どんなに名医であっても「完全」はあり得ない。そのことが何を意味するか十分理解していた。少しでも手元が狂い血管もしくは脳細胞を少しでも傷つけてしまえば「最悪の事態」になるとは自明の理であるインフォームドコンセントでは確率の話をしてくれるが本人にとっては確率の問題ではない。つまり一定の確率で死ぬことがあり得ることだ!僕は何が起こってもおかしくないという覚悟をしていた。そして手術・・全身麻酔のためのマスクをはめられチューブが差し込まれてきた。「はい大きく息をしてください」目の前には主治医の顔が見えている周りを見渡すと助手が数人見えている。「いよいよだ・・」心の中で「覚悟」した。。「今見えている手術室の光景が僕が見る最後の景色かも...
人間について

「なぜ」という問いかけが本質を捉える

なんで?「当たり前」と思っていることに「なんで?」と問いかけてみると面白い。人間、自分の中では明確な理由が分かって行動していることは以外に少ない明確な理由を理解して、見ること見ている世の中の事象は以外と少ないと思う。「そんなもんだろう」「当たり前」という意識なので漠然としか認識できていない本質を掴めていない本質(原因と言ってもよいだろう)をつかめていないと、苦境や人生の壁に出会ったとき不安や恐怖に襲われるものだと思う。なぜなら原因がわからないから対応が見えないからだ。本質を見抜いていると対応策がわかるので、冷静に行動することができ、むやみに心の不安に囚われない障害者となってから「なぜ」と問い続けた。なぜ脳出血を起こしてしまったんだろうなぜ僕は障害者になってしまったんだろうなぜ生きているんだろうなぜ生きなきゃいけないのだろう。決して明確な原因と答えが出てきたわけではないが,できるだけ素直な気持ちで問い続けることで、生きる意味や出会った苦境を自分なりに客観視することができたし結果として、自分なりに解決策を見い出すことができたような気がするそして自分の人生を受け入れ「消化」することができるよ...
人間について

素直ってある意味怖い! けど強い!

本日とある会社の社長と話をしていた。今後もビジネスの展開の話や色々なことについて話をした。その社長と話をしているといつも思うのだが時々「異様に冷徹」ともいえる反応が帰ってくるのだ。かといって人柄として人間的に冷7たい人ではない。むしろ温かい人だ。なんでそんなふうに感じるのだろうと、今考えていて、ふと分かったような気がして書きとめておこうと今ブログを書き始めた。その理由は「素直さ」だ!よく考えるとその社長は実に素直なのだ。そこには何の「捉われの心」もなく、「思い込み」も一切存在しないのだ。殆ど人間は、自分がこれまで生きてきた人生で体験した色々な事象が原因で「捉われ」や「思い込み」が存在するものだ。マイナス面におけるその典型的なものが「トラウマ」というヤツだその社長と話しているといつも気になる言葉がある。「なんで?」この「なんで?」という言葉ほど恐ろしいものはない。こちらはある意味「確信」をもって話した内容に対して、「なんで?」という疑問文が帰ってくるのである。こちらが、「当たり前」と思っていることに対して、「なんで?」という疑問文が帰ってくると答えようがなくなるのである。まるで幼児の子供...
人間について

まだ乗り越えることができていなかったんだ

まだ自分の障害を負ったことを現実として直視して受け止めることができていない。。今朝起きたら、なぜかとてつもなく辛い気持ちになっていた。原因は良くわからない。全く分からない・・・昨日まで頑張って東京にまで赴いていたのに・・そのパワーが体に気持ちにになみなぎってこない。左半身の痺れが辛い。ベッドから立ち上がろうとしても眠っている間に硬直した麻痺足が痛くて伸びない。。リビングまでの道のりが、異常に遠いどんどん気持ちが辛くなる。なんで僕がこんなことになっているんだろう。。リビングにまで行くだけでこんなに苦労している。何とも言えない空しさこみ上げてくる「無私」「無私」と唱えているが、今朝は効かないようだ。痛みと痺れが原因なのか心のネガティブスパイラルに陥ってしまった。意味もなく、いろんなもの(人)を恨んでしまう精神状態だ。まだ精神的に乗り越えることができていないことを実感した朝だった。
人間について

他者に救いを求めるより自分を信じる心を持つ方が本当に救われる。

先日、友人の誘いでイヤイヤながら、不治の病も治癒すというヒーリングというやつの会合に出席しました。友人が本気のようなので断るわけにもいかず・・すると案の定「神」のように崇められる「カレ」という存在(既に死亡したドイツ人)がおり、その人のヒーリング能力とかいうもので不治の病をも治すというものだ。会費が必要なわけでもなく、集まっている人たちは、本気で信じてボランティア的に「会合」を開いて「教え」とかいうものを説いて回っているようだ。ドイツ人も参加していた。何も強制されるようなことはなかった。不思議な会合だった。ただそのなかでこんな言い回しがあった。「信じなさい。信じれば、神の力が治癒を導いてくれます。」なんだこりゃ・・正直心の中で(いや声を出して笑いそうになったが)ズッコケた。。。それよりも気になったのはこの会合に来ていた人たちの目が「誰かに救いを求めている」ような目をしていた。宗教法人では内容だったが、これはまさしく西洋的な宗教だと感じた。宗教のことにくわしいわけではないが、どうも西洋的な宗教には、「神」というものは存在し、その「神」に救いを求めるために色々な宗教的儀式が存在するような気...
人間の生き方

仕事とは自分で作るもの

この2、3年、就職氷河期などと言われ、正社員採用を少なくしている大企業側に問題があり、学生側は可哀想であるというような風潮にあるように感じる。こういう風潮に乗っての学生側や求職者は自分たちが被害者であるというような被害者意識を持ち、企業が雇用を減らすことが辞任で、で自分たちは就職ができない。だからフリーターになるしかない。ニートになっても仕方がないというような意識になっているのではないだろうかもしそうだったら、とんでもない話だと思う。仕事などというものは「自分で作るもの」だと思うからだ。ゼロから自分で作るものだ。仕事とは何かを突きつめて考えてみると、それは社会奉仕だと思う。「社会の役に立つ行動」あるいは「人の役に立つ行動」でありその人が「役に立つ」からこそ人はその人に報酬を支払うのではないか。「仕事はもらうもの」ではない。「仕事とは与えるもの」であると思う。人が面倒臭いと思っていることをやってくれる(楽を与える)あるいは音楽や芸術などで人に(感動を与える。)新たな技術開発で人に対して(便利を与える。)こういった与えるものがないから報酬が貰えないだけのではないか。報酬をもらう前に、自ら「...
人間について

「なぜ」という問いかけ

「なぜ」と冷静に探求する心が問題の本質を捉えると思う本質を捉えることができれば怒りや悲しみなどの負の感情が消滅するものだと感じる僕は小学生の」頃いじめられっ子だった。苛められるたびにいつも怒りと悲しみに満ち溢れていた。学校ではいつも泣いていた記憶しかない。そこから逃れる術としていつの頃からかいじめられたときには「なぜあの子はそんなことを僕にするのだろう」と考えるようになった。そう考えたりすると「きっと今朝、家で兄ちゃんにいじめられて、悔しく、悲しかったのだろうな」「その怒りと悲しみの鉾先がなく、それがたまた、のほほんとしている僕に向ったのだろう」などと相手の心情的理解をすると、不思議と怒りや悲しみが治まり、相手を許せるようになることを子供ながらに感じた。きっと怒りや悲しみから逃れる術として自然と身に付けたのだろう。このことは今の自分を思考回路作り上げている。だから本当に「怒り心頭」という気持ちに」はあまりならない