人間の生き方

無私無欲こそ最大の力

辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、怒り、恨みなどの心が生まれる自分自身に起こったことや身の回りの事象をどのように捉えるかによって、辛いことも、辛くなかったり、苦しいことも、苦しくなかったり、悲しいことも、悲しくなかったり、そして怒りや恨みなど気持ちも薄れるものだと思う。僕の負った障害についても、「障害受容」というような言葉で「現実を受け入れなさい」「受け入れれば楽になれる」などという人もいるが、僕はそうでは無いと思っている。以前の記事にも書きましたが、身に降りかかった究極の苦境や悲しみあるいは憎しみ・恨みなどの起こる挫折など、生身の人間である限り、本当の意味で受け入れられるわけがない。そんな悲しみやつらさはきっと一生受け入れることなど出来ないだろう。そんな「受け入れる」なんていうことを無理にする必要はないと思う。そんなことをしようと思っても、人間の心はそう簡単に受け入れることができるものではない。そうではなく、受け止めることそのものをやめれば良いと思う。受け止めもせず、受け入れもせず、、心をスルーさせてしまうのだ。そのためには「無私無欲」のような心が必要なのではないだろうか僕はそう思い...
人間の生き方

困難と苦境こそ成長(発展)のチャンスである。これは真実だ。

過去の多くの偉人が「困難や苦境は試練と思え」というようなことを言っているけれど、これまでの僕はピンと来ていなかった。でも今回僕は脳出血により障害者になったことで、その通りだ!と本当に思えるようになった。なぜなら、困難や苦境に襲われとき、これまで通りの考え方では立ち行かなくならなくなるからだ。だからどうしても新しい発想や知恵が必要になるのだ。そこにこそ新たな本当の生きた知恵が生まれると感じるのだ。そして成長もしくは発展につながるのだ。例えば僕は左手は全く使いものにならなくなってしまった。当然のことながらこれまで両手でしていた作業は今まで通り出来なくなってしまった。(片麻痺なって初めてわかった事だが、人間が行うほとんどの手作業は両手を使っているのだ。片手だけでしている作業なんてほとんど無い)今までのやり方では出来なくなってしまったのだ。身近な生活の中で、丼やお茶漬けを食べるという作業。これは右手片手だけではおそろしくむずかしいのだ。左手で、器を持てないので口まで器を持ってきて「かきこむ」ことが出来ない。当初、そのことに対してとても歯がゆい思いをして、何の知恵も使わず、今まで通り器から口に直...
独り言

「不老不死」と「死後に魂が残る」ことは究極の孤独だ

先月のNHKスペシャルで放映されたマサチュ-セッツ工科大学でサーチュイン遺伝子という不老不死の遺伝子を発見したという話題がひそかに注目を浴びているようだ。その話の話題を聞いたときに同時に「その遺伝子を目覚めさせるためにどうしたらいいの?」「不老不死になってみたい」そんな言葉が聞かれるでも 皆そんなに不老不死になりたいのだろうか僕は不老不死になんてなりたくない。なぜなら不老不死なんて究極の孤独以外の何物でもないと思うからだ。不老不死とは恐ろしく孤独なのだと感じたのは高校生の手塚治虫の「火の鳥」の未来編を読んだときだ。未来編の主人公となる人が地球が全面核戦争で破滅する直前に、「火の鳥」から不老不死の体にされてしまうというストーリーだった。そして全人類破滅したあとで、自分だけが生き残り、永遠に生き続け地球が再生するのを見守らなければならないという運命を背負わされるのだ。以下は不老不死になるということに対して最も衝撃を受けた2ページだ。つまり不老不死なんて孤独になる以外の何物でもないのだ。僕にとって孤独ほど恐ろしいものはない。それは僕の辛い体験からだ。僕が半身麻痺の障害者になった当初、ほとんど...
人間の生き方

「ありがとう」の言葉で飯が食えるか

僕は障害者になってからというもの、「たとえ障害者であっても、人の役に立つ人間でありたい。」「何の役にも立たない人間」にだけはなりたくなかった。ただそれだけ現在のNPO法人を立ち上げたきっかけもただそれだけなのだ。僕は「ありがとう。あなたのおかげで助かりました。あるいは売り上げが上がりました」その言葉が欲しいだけ。正直(本当の本音)言って大きな報酬など僕にはまったく必要ないと思っている。最低限、親子3人暮らしていけるだけの収入さえあればそれで良い。それ以上のものは望まない。だってそれ以上、いくらお金があったところで、この障害が治癒するわけでもないし、以前のように、スキューバダイビングを楽しむことができるようになるわけでもない。だから本当に大きなお金にには興味がない。そのものより、「ありがとう。助かりました。」という言葉がなによりも欲しい。その言葉こそが、「障害者の僕でも人に役立っている」証拠だと思うから、、、僕にとって、「役に立たない人間になってしまった」と感じることほ辛いことはないから、、、そんな気持ちを発症当初イヤというほど味わい、自暴自棄になり、自死まで考えたのだから、、、客観的に...
独り言

人間としての本懐を遂げたい

人の介助なしで生きていけない人間にだけはなりたくないたとえ障害者であっても・・与えられた役目がほしい福祉とい名の元に介助されるだけで、何もさせてもらえないこと、何もやることがないことの方がずっと怖ろしいなぜなら、何もしない、何もやることがない状況は、ただ、ただ痛みと痺れに耐えるしかないことになるから・・果たすべき役割を持ち続けそしてそれをやり続け、役目を果たしたいそれこそ僕の人間としての本懐だ。やるべきことがあることによって一瞬でも痛みや痺れを忘れることができるそれができないのであれば死んだ方がマシだ。死など怖れず、むしろ死を望むだろうそんな人間としての本懐を遂げることこそ最高の生き方であると思っている。たとえ結果が出なくとも、与えられた役割を果たすため精一杯頑張ることができたと言えるような後悔のない人生にしたい
人間の生き方

決して弱気になってはいけない!要は心の持ち方だ!

一度志を持ったからにはちょっとしたことで弱気になってはいけない。と今、自分に言い聞かせている。昨日ある産業振興支援団体の方に、NPO法人の今後の事業展開に対して助言をもらいに伺った。その時に何気なく言われた言葉が僕の心に突き刺さった。「その手の事業は最も難しい分野ですよ。そのような事業をやるには、相当のパワーが必要ですよ。何か問題が起こったらすぐに駆けつけるようなフットワークが必要ですよあなたのように体が不自由だとキツイんじゃないですか」そんな言葉だったと思う。悪気のない気持ちで正直におっしゃってくれたのだろう。でも僕の心には突き刺さってしまった。「僕なんかには不可能だと思っているのだろう。僕はできる。」瞬間にそんなふうに心の中で反発したけれど、打ち合わせから帰って、弱気が出てきてしまった。。やっぱり無理なんだろうか・・・そんな思いがなぜか昨夜から今朝にかけて増幅してしまい眠れなかった。そして今朝、雨模様の天候不順のせいか左半身が猛烈にしびれていた。益々弱気になってきてしまった。でも僕は「M」ではないだろうかと思ってしまった。そんな弱気な気分だったけれど、昨日の言葉を思い出した瞬間、逆...
人間の生き方

面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり

面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり高杉晋作の辞世の句だ。今48歳の僕、振り返ってこれほど波乱万丈の人生になるとは思いもよらなかった。43歳で小さいながら会社を起業、決して適職とはいえない社長業を奮闘し、45歳のさあこれからというときに、脳出血起こし、半身不随の障害者となってしまった。おかげでやっと新たな事業の立ち上げ、少し軌道に乗りつつあった会社も破産、無職、無収入に陥ってしまった。それからというもの日々中枢性疼痛の痺れと闘い続けた。半身麻痺の体ではもうこれ以上何も出来ない、役に立たない人間になったと思って自暴自棄になり僕の人生もこれで終わりかな。などと思っていたけれど脳の再手術の入院中に思いついた日本の技術を海外向けに紹介するデータベースサイト入院後に作ったこのサイトから派生して、それがいつのまにか日本のモノづくり企業の海外の紹介と海外販路開拓を支援するなどという大それた事業目的のNPO法人を立ち上げるまでになった。いまだに1分1秒痺れはキツく、辛いけど、高杉晋作の言う通り、自分の人生を振り返って、辛い人生だと思えば、辛い人生だ。面白い人生だと思えば、面白い人生だ。...
人間について

「受け入れる」ことなんて絶対不可能な中途障害という苦悩

僕はいわゆる「中途障害者」であるので、生まれつきの先天性の障害者の方の苦悩や苦労については理解出来ないし、何か言える立場ではないけれど、少なくとも中途障害者の苦悩については話すことができる、知ってもらうことができる。中途障害というものは、それまで持っていたものを「喪失」してしまうという実に辛い苦悩がある。それは決して、体の機能を失うだけではない。体の機能の失うことによって「それまで当たり前にできていたことが出来なくなる」という苦しみももちろんあるが、それにともなって全く想定出来なかったような実にたくさんのものまで失ってしまうものだ。例えば僕の場合、障害を負ったと同時に、自分の会社を失った。自己破産もしたのでいろいろな財産も失った。仕事も失った。収入もなくなった。そして家族の絆さえ失ってしまった。苦境に陥ると家族は団結するものだと言われたりするが、現実はそんな生易しいものではない。家族も含め、親族皆がは突然の出来事に戸惑い、イラだちを覚えているので、まったく予期しないことで揉め事になってしまうのだ。そんなものまで失ってしまうのだ。僕の知り合いで脳卒中で障害になった方も車いす生活になり、し...
人間の生き方

挫折を糧に凛と生きる

人間、生まれたときから挫折の連続ではないか。ミルクを飲むのに失敗し、立ち上がることに失敗し、歩く事に失敗し、ころんで怪我をして、そこからどうしたら転ばないで済むかを学び、なぜ転んでしまったのかえおも学ぶそんな学びがあるからこそ歩く事ができるようになり、ミルクもこぼさず飲めるようなる。誰しも失敗の連続であり学びの連続ではないか。でもその失敗に挫けることなく、失敗を糧にできるからこそ成長してきたのではないか。失敗こそ、挫折こそ学びの宝庫ではないか。一度失敗したくらいで、挫折をしたくらいで諦める必要はない。失敗したところで終わるから失敗なのだ、成功するまでやり通せば成功になる多くのことを学ぶことでができれば、次からはそれまでに感じることが出来なかったことを感じることができ、物事に対する判断能力も向上していると思う。そしてより有意義な人生を送ることができるのではないかと思う。失敗は悔しいかもしれないけれど決して恥ではない。僕も障害者になって多くのことを学ぶことができたと思う。障害者の気持ちを理解できるようになった。日々の「悔しい思い」を理解できるようになった。体が動かなくなってきたお年寄りの気...
人間について

僕の使命、男の使命、男の生き方

僕の生きる使命とは何だろう男の生き方とは?女の生き方とは?女の使命とは?男の使命とは?こんな事を言うと古臭い考え方の人間だと思われるかも知れないけれど、男女関係なく、人間には人それぞれに生きる使命というものがあるのではなたいだろうか。そしてその使命を果すことができなくとも、その使命を果すべく、自己を律し、ひたすらに与えられた道を突き進むことこそが尊い生き方ではないだろうか。人間、生きているなかで、さまざまな自分の欲望や野心もあろう。しかし、そんな自らの欲望が満たされなくでも、目標が達成できなくとも、自らの使命を全うしようと自ら力の限り、生きることができれば、それ勝る喜びはないと思う。そして、僕自身の自らの使命とはたとえ、障害を持っていようとも、その事が原因、大きな成功など掴むことができなくとも、ただただ今、7才の息子が、所帯を持つことができるようやななるまで、妻も人生を全うすることができるよう支え続けることだと思っている。だから、障害がどんなに苦しく、辛いものであっても、それを言い訳に手を抜くような生き方はしない。そんなことをしたら、そんな生き方をしたら、自分自身が後悔し、苦しむ事が分...