人間の生き方

技より度胸、知識より熱意 健康より根性

今日はなぜか 精神的に辛かった。なぜ、たかが歩くことにこれだけ苦痛を伴い苦労しなければならないのかなぜ、毎朝、毎朝起床の度に全身に痺れと痛みを感じ苦痛にたえなければならないのか。そして、なぜ、自分がこんな目にあわなければならないのかまさに苦痛が心の卑屈を生んでいた。 そんなことばかり考え、鬱状態だった。 先週はやっとNPO法人主催で中小企業向けの海外進出セミナーの開催に成功したにも関わらず妙に気分がすぐれない。自分の障害の事が酷く辛く感じ、こんなに毎日が辛いのだったら、死んだ方がマシだとさえ考えてしまうくらい辛かった。その辛さから脱け出すためにどうすれば良いか痺れと痛みにあえぎながら必死で考えた。 この中枢性疼痛の痺れと痛みにはなぜか坑うつ剤が効く。場合によっては半分くらいまで和らぐ。薬にばかり頼っているのは嫌だから他に方法はないか考えた。坑うつ剤が効くということは脳が前向きになれば良いということだ。だとすれば、精神力の問題ではないかそこで、武士道に関する本を読んだ。そこにこんなくだりがあった。「敵と相対するとき、勝つか負けるかは技ではなく、度胸だ。死ぬ覚悟のある方が勝つ」と、、僕の痺...
人間について

善悪以前

何もないこの大宇宙に地球生まれ、そしてその中に生命が生まれ、多種多様な動植物が進化してきた。なかには病などで死に絶えてしまった動植物もあろう。人間の人生とて同じではないか。人それぞれ生まれながらにして体が弱く病気がちな人もあろう。体力のある人もあろう。得意も不得意も違いできることも違う。僕は運命論者ではないけれどもこの世の中は何か大きな目に見えない力によって運命づけられているようにも感じる。そして所詮人間の知恵と才覚で左右できるものはこの世に定められたその運命の10%程度で順境の人生も悲劇の人生も、あらゆる人類に降りりかかる災難などこの世に起こるさまざまな出来事は人間の行動の善悪以前の問題ではないだろうか。そんな心境になることができれば 得意に奢らず、失意に落胆することなく、こだわりにとらわれることなく、平々淡と粛々と迷うことなく我が道を歩むことができるのではないか。そんな生き方にこそ、生きる意味が生まれ、どんな境遇であろうと自分の人生を有意義なものにできるのではなかろうか障害者となってしまった今だからこそ、そんな心境になることができれば、僕は真の心の平安を得ることができるのではないか...
独り言

逆境を手探りで素直に生き抜く

盲人の人は目が見えないのになかなか怪我をしない。目が見えないから、それだけ人一倍慎重であるからなのだろう。歩くということに対して謙虚なのだろう。ある意味生きることに対して謙虚なのかもしれないむしろ目が見えるほうがものに使ったり、つまずいたりして怪我をする。なまじっか目が見えるため油断するのだろう。歩くということや生き方に放漫にになるのではないだろうか。振り返って自分を見つめ直してみると半身不随となってから、一寸先は闇のような人生になったと思う。そのおかげで生き方に人一倍慎重になったと思う。元気なころよりも数倍生きるということに対して謙虚になったのではないかと思う。毎日が一歩一歩踏みしめるようにして歩く人生になったと感じるそれに比べると昔はずいぶん乱暴な生き方をしていたように思う。逆境を乗り越えるためには、自分に降りかかったその逆境を素直に受け止めることが大切なのではないだろうか。そして逆境を乗り越えるために一歩、一歩ほんの少しずつ、でもしっかりと前に進むことが大切なのではないだろうか。逆境を素直に受け止めることでその逆境を自分に与えられた貴重な試練として考えることができると感じる。試練...
人間の生き方

策はある

どんな苦境においても必ずそれを乗り越える策はある。その策は人間の心の中にあると思う。一見八方塞がりのように見える状況においても必ず打開策はあるそのためには自分を信じることそして希望(解決策があること)を信じる心を持つことが必要だ僕はそう信じている。信じる心なくし、あきらめた瞬間に策も消えてしまう。そう思うのだ。僕自身3年前脳出血で半身不随となり、会社も破産、自分も個人破産無職無収入、その上毎日が疼痛との闘いの中で正直言って絶望状態だった。もう僕の人生は終わったかな・・これからの半生は介護を受けながら、生活保護を受けながら生きていかなければならないという覚悟までしていた。正直本当にそう思っていた。でも今、信じられないことにこんな身体で新たな事業が立ち上がろうとしている。先日はやっと海外進出セミナーという実績まで作ることができた。セミナー参加者の中から1社でもから海外販路開拓もしくは海外進出を成功したならば僕はまだ社会に役に立つ人間でいることを証明できる。まで僕の人生は終わっていなかったようだ。それは多分僕自身が他人になんと言われようと自分自身を信じて「必ず策はあるはずだ」と思い続けていた...
人間について

希望はいかなる境遇でも持つことができる

よく政治家は「希望を持つことができる世の中を目指したい」などと言うこがあるが希望を持つことができる世の中とはいったいどんな世の中なのだろうか希望を持つことができる人はどんな境遇 でも希望を持つことができるのではないだろうか希望を持つことができない人はどんなに資産があっても或いは事業資金があっても希望を無くし自ら死を選ぶ。希望を持つことができる人は資金もない人脈もない。無い無いづくしの状況でも希望を持つことができ、知恵と勇気で苦境を乗り越えていくのではないかつまり、希望を持つこととその人の境遇とは何の関係もないのだ。だから「希望を持つことができる世の中」など存在しないのではないか。希望はひとの心の中に持つものだから、、政治家は「希望を持つことができる世の中を目指したい」などと言うのではなく国民に「希望を持つことができる心」を養わせることが大きな仕事ではないだろうか。そんな意味で、あのケネディ大統領の有名な演説の「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい」というくだりはアメリカ国民に希望を持つ心を持たせるものだったのではないだろうか逆...
人間の生き方

粛々と・・・

今僕は、やるべきことを粛々とやり続けることを自分に言い聞かせている結果をあせらず、やるべきことを粛々とやり続けさえすればいつか必ず成果があがるときがくるそう信じるようにしている。身体のリハビリもそうだ。脳卒中の麻痺は年単位の回復だというが実際にはリハビリをいくらしても正直何の成果も感じることができない。焦る・・・・このままもう回復しないのではないかやるべきことを粛々とやり続けることができない理由は人間の心に問題があると思う。焦り、怒り、悲しみといった感情が出て来ると人間は冷静に行動することができなくなるものだ。時には喜びでさえ「うぬぼれ」といった感情に変わり、やるべきことを粛々とやり続けることができない状況になることもあると思う。今の僕は仕事の面、身体の面、あらゆる面で大きな壁が立ちふさがっている。努力しても努力しても壁を乗り越えることができないような気がしている。成果が出ない・・焦る・・だからこそ未来の希望だけを信じて、僕は今やるべきことを粛々とやり続けることを自分に言い聞かせている自分の未来を、そして自分自身を信じることができなければ粛々とやり続けることはできない。さらには自分の希...
独り言

清廉潔癖な実業家??

実業家や政治家は清廉潔癖でなければならないのだろうか。今朝僕のブログのコメントに私が下記の別のブログについてコメントがあったこの記事に書いた社長に愛人がいたがどう思うかというような質問だったと思う。申し訳ないけれどもこういった質問についてはこのブログのテーマの本筋ではないので削除させていただきました。この質問を見たとき僕は実業家や政治家は清廉潔癖でなければならないのだろうか。と正直思った。愛人がいるかどうかなどプライベートなことではないか。(これは反論があるかもしれないけど)愛人がいたということはその人にそれだけの魅力があり、甲斐性がある証拠ではないか。事業家として成功するような人間は精神的にも財力にもタフでなければならないと思う。愛人の1人や2人いたって不思議ではないと僕は思う。正直言って愛人を持つためには精神的にもに財力的にも関連なければならないと思う。でもそんなことはどうでも良いじゃないかと思う本当に社会的に貢献する事業をしているのなら多少の悪党でも良いと思うのだがおかしいだろうか。確かに社会的不法行為による社会的損失をを与えるような悪事はいけないと思う。しかしプライベート愛人問...
人間の生き方

努力をしても

通常は努力をすればするほど成果が上がりますよと言うのが普通である。しかし実際には必ずしもそうはいかない。働けど、働けど、必死に努力をしても なんの成果も見えてこないこともあるそんなとき 失望落胆し、自暴自棄なることもある。しかし、そんなときこそ心を乱さずじっと耐え、尽くすべきことを尽くし、目の前にあるやるべき事を粛々とやることが大切なのだろう思う。そこで失望してしまい、諦めてしまうと本当に成果が出なくなってしまう。諦めてはいけない。諦めてしまったら本当にそこで終わりになるだからどんなに苦しくとも、目に見える成果が出てこなくてもやるべき事を粛々とやることが大切だ。しかし、人間これが難しい。焦り、憤りなどのネガティブな心が芽生えてくるものだ。僕のリハビリなんかはその最たるものだと感じている。健常者の頃、スポーツのトレーニングをすれば数日で筋肉痛という形で「成果」を感じることができたものだ。だからこそ次を頑張ることができたと思う。でも、この脳卒中による肢体麻痺を回復させるためのリハビリはそうはいかない。どんなにリハビリをしても、年単位(場合によっては数年単位)での回復しかしない。だから回復の...
人間の生き方

油 断

僕は脳出血によって油断することができない人生を与えられたと思っている。人の心というものは不思議なものでどんなに困難なことでも物事が3年も続けてうまく行くとどうしても心に油断が出てきがちなものであると思う。だから昔の人も「治に居て乱を忘れず」という心構えを解いてくれている。僕は脳出血によって自分が出血性のモヤモヤ病による脳出血だということを知った。そして一度出血すると10年以内の再出血の確率が61%もあるという。正に油断大敵である。油断が即死につながる。そのことを知ったときには本当に怖かった。それでもこの2年半出血する様子は全くなかった(もちろん出血しそうかどうかなんて分からないのだから察知できるわけがないのだが・・)そうすると不思議なもので僕の心の中に油断が出てきているように感じる。でも、僕の場合後遺症という形で強烈な痺れや肢体麻痺が残った。だから強烈な痺れや痛みに襲われるときにはその苦しみから「もしかしたら」という死の恐怖が僕の心の中を襲って来るそうするとおのずと慎重になってしまう。「油断はできない」という気持ちになる。日常生活でも少し油断すると転倒して大けがとする危険が常に伴ってい...
独り言

アメリカ人などが作った金融商品の金融理論は数字のレトリックによる錬金術にすぎない!!!

昨夜に引き続きファンドなどの金融商品は数字のレトリックによる錬金術にすぎないということを書いてみたいと思います。僕は大学時代ある化学反応漕である物質の濃度分布を明確にするための方程式を作るという研究をしていた。これは正に数字のレトリックを作ることだった。数字のレトリックというより「方程式のレトリック」を作ることだったと思う。数字のレトリックとはいろいろな計算式を組み合わせもっともらしい結果を出すことである。一見正しい方程式のように見えるけれども実は方程式の裏側にはすぐにはわからない細工が施していたのです。僕の目的は対数表において反応漕の物質の分布を表すものに違い曲線を描く方程式を作ることだった。通常、対数表においてはどんな方程式を作っても直線になる。しかし僕は曲線を描く方程式を作ることに成功した。もう30年以上前のことなので詳しいことは忘れたけれども、ちょっとした数字のレトリックを使ったのだ。ところが教授陣はこの方程式のレトリック見抜けず見事に騙され、すごい方程式だと称賛され、僕は卒業単位をとることができたのだ。。^^;その後、実はこの手の数字のレトリックを使った方程式を大学卒業後すぐ...