人間について

心の薬

心が病んでしまう脳が病んでしまう「脳=心」なのだから、、脳が読んでしまうこと身体も病んでしまう。そして病は老いを加速させる。そんな病んだ心の最良の薬は「感動」だ。感動しなくなったら死んでも同然と言ったのはあの物理学者アインシュタインだ。そして感動は愛だと思う。大きな感動でなくてもよい日々の小さな感動の積み重ねが大きな感動となり大きな愛となる。子供を持つということは、毎日が小さな感動でいっぱいになる。子供にとっては毎日が生まれて初めての新たな出来事ばかり。大人にとって当たり前のことでも子供にとっては「生まれて初めて見た」「生まれて初めてできるようになった」そんなことでいっぱいだ。毎日が感動でいっぱいなのだろう。そしてそれを見ている親も感動をもらえる僕のような脳を患った人間にはこんな感動と愛こそ最良の薬なのだと思う。愛こそすべて
独り言

病の始まりと病の終わり、健常者(医師や介護者)と病者(障害者)の関係

病の始まりと病の終わり、そして健常者と障害者人間はそれぞれ異なる人生観を持っていても、極限の状態にあっては生死を超越した安楽を願う心に違いはないだろう。病は痛みに始まり、病の終わりは痛みの終わりである。そして痛みの終わりは死でもある。そんな痛みと闘い続けているとき、病者の傍に座って訴えを聞き、身体の痛みと心の痛みを和らげ鎮める努力をしてくれて手を握ってくれヒト・・そこに病者は尊い愛をみる。病者(もしくは障害者)と健常者を隔てる壁は高く厚い別世界と呼んだ方が当たっているほど両者の感じ方、考え方には隔たりができてしまうのだろう。それがたとえ肉親や親子であってもその隔たりを埋めることは至難であると思う。健常者の方々、いや特に病者を診る立場にいる医師たるものは、その壁を乗り越え、少しでも病者の世界に近づく努力を続けてほしい。そのためには、単に医学の知識を習得したり、最新の検査設備や医療機器を駆使することではなく、病者の言葉に耳を傾けることが最も大切なことではないか。これが病者(障害者である)私からのメッセージである。
人間について

やっぱり生きるのが苦しいんだよ。

死んだら無になるとか、魂も消えるとか、くだらなねえことばかりなんてで考えてるんだろ、死んだら「天国良いとこ一度はおいで~♪酒は旨いしネーちゃんは綺麗だ~♪」なんてノー天気に考えてりゃいーんじゃねーのなのに難しいこと、あーだこーだと考えてるだよ。元気なときはこんなことを考えもしなかった。自分の会社で多少大きな借金を抱えてたけど、何~とかなるさってもっと前向きだったよ。。。オレでもね。。今は体が苦しいんだよ1分1秒生きているのがさ・・・・苦しんだよ・・みんな中枢性疼痛って知ってる?知らねえだろな・・痛いんだよ!一日中痺れてるんだよなーんにもしてねえのに痛いんだよ手に傷もなーんにもねえのに、手のひらに五寸釘を刺されているような激痛がは走るんだよ。脳がイカレちまってるからなんだってさ、それにしてもよ。なんでこんなにつれえ思いしなきゃなんねえんだよ。この間だってさ、東京に行ったとき羽田空港でリムジンバスに乗ろうとしてバス乗り場いったとき乗り場の長げぇこと、今の僕の足ではよ、はじっこの新宿行きの乗り場まで歩くのが辛いんだよ足が重たくって重たくって、結局時間に間に合わなかったから1台遅らせた。おかげ...
人間について

不老不死は幸福か。あの世が存在し、魂が存在することは幸福か?

人間は無から生まれ無に帰るのだと思う。もともと魂など存在しない。と僕は考えている。魂が存在すると主張する人は人は生まれる前にも魂が存在していたというのだろうかだとしたら江戸時代にも僕の魂は存在していたことになる。それは妙な話ではないか。その僕の魂は「あの世」にでも存在していたというのだろうか。その時は悲しみに満ちていたのだろうか。死の状態が悲しみに包まれているとしたならば死は恐ろしいものなのだろう。でも江戸時代に存在していた?僕の魂は悲しみなど包まれていなかったと思う。江戸時代だけではなく、生まれる直前僕は何も感じていなかったと思う。生まれた瞬間から感じ始めたのではないのか。よく赤ちゃんは親を選んで生まれてきたなどという人がときどきいるそんなバカなはずがない。生まれる前にそんな判断力なぜ備わっているのか判断力というものは脳の働きではないか脳が存在しない状態で一体どうやって判断するのか。脳が存在しないということは何も感じていない状態ではないのか?つまり死とはそういった生まれる前に戻るだけではないのか。にも関わらず人間は死を怖れる。なぜ怖れるのだろうかそのためには「幸福とは何か」について考...
独り言

死を怖れ始めた自分

昨日、記事を書いていて、自分の大きな変化に気がついた。自分が死を怖れ初めていることに気がついた。1年ほど前までの僕は死を怖れていなかった。むしろ死を望んでいた。当時はそれほどまでに生きることの方が苦しかったのだ。毎日24時間46時中続く中枢性疼痛(たぶん経験したことのない人には分からない苦しみ)・・当たり前にできることが出来なくなったことで恐ろしく不自由な毎日・・そんな現実を受け入れることが出来なかった。。だから生きることの方が苦しいと思っていた。毎日、一日を生きるのが精一杯だった。こんな苦しい思いをしてまでなぜ生きなければならないのかと思っていた。だから死を望んでいたように思う。ところが今、死を怖れている自分がいるのだ。。そんなことから半身麻痺という障害を少し乗り越えたのではないかと感じている。あれほど苦しいと感じていたことを受け入れ初めているのではないか。生に対する欲求が生まれ始めている自分がいる。さあ、これから僕はいつまで生きるのだろう。。それは「自然の摂理」に任せるとするか!
人間について

情熱やこだわりも執着心の一つとして人の心を苦しめる

執着心(生きることへの執着心や築き上げたものに対する執着心、さらにはお金に対する執着心)はそれを喪失したときに人間の心はひどく傷つき苦しむものだ。そして喪失していなくても、喪失することを恐れる心が平常心を失わせるものだと思う。執着心といえばあまりよくないイメージがあるけれど、物事(人)に対する情熱や思い入れなども執着心だと思う。だから物事(人)に対する情熱や思い入れなども平常心の邪魔になるものだ。人間の心ってやっかいなものだ。ときにはこのような執着心は人間の行動のパワーとなり、原動力となるものだ。でもだからこそ、それを失うことを人間を恐れるのだ。「怖れ」を抱いた段階で平常心は失われてしまい、正しい(素直な?)判断が出来なくなるこの「怖れ」を取り去ることができれば、実に冷静に物事が判断できるのに・・と思う。僕にはまだまだ「怖れ」がある。。やはり死に対する怖れだ。。一度は死にかかって、もう怖れることなどないと思っていたけれど、昨夜、たまたま下記のもやもや病に関するサイトの記事を読んだとき、かなり動揺してしまったのだ。再出血の確率61.1%・・・僕は統計などあくまでも他人のデータを集計したに...
人間について

人は変わることができる

人は変わることで苦難を乗り越えることができ、苦難を乗り越えることで成長するのではないだろうか僕は小さい頃、内気で泣き虫だった。とても臆病な性格だった。それは思春期になっても変わらなかった。思春期以降なぜか「死」というものに対して怖れを抱いていた。対人関係では人前で話すことなどできない性格だった。僕は自分の心のどこかで「自分を替え変えたい」という欲求があったと思う。だから社会人になってからというもの、あえて自分の性格に合わない仕事(例えば営業職や講習会の講師の仕事など)を選んだ。当然のことながら苦しんだ。でもその苦しんだことによって昔の自分では考えられなかったような多くの人前で喋るセミナーの講師などという仕事までできるようになってきた。徐々に自分が変わっていったことを実感していた。そして劇的に変わったのはやはりそして今回の脳出血だった。まず「死」に対して怖れを抱かなくなった(これには長い時間がかかりしかも苦しんだが・・)その結果、これまで憶病だった自分がとても強くなったような気がする。、半身麻痺という障害者になりたくさんのものを失うことによって更に心が強くなったと感じる。変わるためには多...
人間の生き方

喪失感や喪失の不安から脱け出す方法

人間にとって「喪失」することを最も恐れることだと思います。僕も体の機能の喪失、自分の会社の喪失、そんな喪失感に苦しみました。そこから抜け出すためにもいろいろ苦しみました。どうすればこの喪失感の苦しみから逃れることができるのか。自分で必死で気持ちをコントロールしようといたしました。僕は脳出血で脳を損傷してしまったので、何とかして回復することが出来ないかと思い「脳」に関する書物を読みあさりました。その中に喪失感や喪失の不安から脱け出すためのヒントがありました。それは脳の機能は「「脳の回路は使わなければ失う」という特徴を利用したものです。つまりに過去にどんなに勉強をしてもその能力(勉強によって構築された脳の回路)を使わなければいずれ失ってしまい、勉強したことすら忘れてしまうことです。その逆に脳は「使えば使うほど強化される」というものです。脳はいくつになっても「使えば使うほど回路が強化(再構築)される」らしいのです。これを脳の可塑性と言うらしいです。この脳の可塑性というものは、以前のは生まれてから2、3歳までの脳の成長期にしかないものと思われていたそうですが、人間の脳はいくら歳をとってもこの可...
起業・ビジネス

実りの多かった東京出張だった

久しぶりの東京、何年ぶりだろう。。新宿に行ったとき夕日に照らされた都庁のビルがとても美しく感じた。半身麻痺となってから、なんとなくもう2度と新宿などに来ることはないだろうと思っていた。だからこそ余計に感慨深さを感じてしまった。NPO法人の活動の方も実りが多かった。・移動式海水飲料水化装置の本格的なオーストラリア進出展開支援・薄膜太陽光パネル発電装置のインドとウクライナでの販売展開支援。・産業用薄膜メガソーラー太陽光パネルの全国展開の支援 (孫正義さんの休耕田へのメガソーラー設置プロジェクトにも負けないと思う)こんな体でいろいろな展開が期待できる状態になっていることに対して何とも言えない気分だった。翌朝、今度は朝日に照らされて都庁がとても美しく感じ、また写真を撮ってしまった。都庁の写真なんか撮っていると、田舎もののお登りさんのようで恥ずかしかったけど、、、
人間の生き方

信じる心の大切さ

自分を信じる 相手を信じる科学的、あるいは統計的データなどなくても「信じる」という心の行為によって好転することが沢山あると思う。それは神様を信じるというようなことは全く別ものだ。神様とか、「見えない力」なんてどうでも良い。そもそも存在が証明できていないものなんかに依存すべきではないと思う。そういう考えは非常に危険だと思う。なぜなら、神様とか信じている「存在」が無いと分かったときには、究極の失望感を味わうことになってしまうからだ。それこそ究極の絶望を味わうことになってしまうだろう。そんなものよりも今目の前に現実に存在している生身の人間の力を信じる、そしてその人間の人智を信じるということがとても大切ではないか。存在しないものや目に見えない不確かなものを信じること自体バカげている。理詰めで考えなければ納得出来ない僕(苦笑)は次のように理解している。「信じる」という心の行為は「脳が信じるという働きをする」ことだと思う。信じるということによって、たとえ根拠がなくても心が前向きになれる。結果として脳が良い方向に活性化する。脳が良い方向に活性化することによって、脳が人間の体に「前向きな指令」を出す。...